ちょうど今月3月18日をもって日本政府がコソボ共和国の独立を承認して10年を迎える。コソボ紛争といえば、「セルビア人によるアルバニア人迫害」、コソボ難民といえば「セルビア人によってコソボから追い出されたアルバニア人」というイメージが強く、実際その面があるのも事実であるが、NATO軍による軍事介入後、反転するように今度は20万人のセルビア人がコソボを追われたことはほとんどが知られていない。そのことがナショナリズムが吹き荒れる2018年の世界でどのような意味を持つか。どこに塵芥の声があるのか。
コソボ紛争を振り返る
過去の取材から検証する前に少し歴史をさらっておこう。バルカン半島のこの小国は、かつて旧ユーゴスラビア時代、自治州としてセルビア共和国に属していた。
セルビア人にとってコソボとは、中世より栄えたセルビア正教の聖地で侵すべからざる地域という位置付けがなされている一方で、人口においてはアルバニア人が多数派を占めており、アルバニア人による政治運営がなされていた。
このような背景の中で1989年、セルビアのミロシェビッチ大統領が、自らの支持基盤を固めるためにコソボの自治権を剥奪してしまう。旧ユーゴの紛争解決に奔走した明石康・元国連事務次長は、ミロシェビッチのこのような性格を「機会主義的ナショナリスト」と呼んだが、事実、ミロシェビッチは「コソボはセルビア」とアピールする強権政治でセルビア人たちの支持を集めた。
一方、自治権剥奪と同時に、公的なアルバニア語教育や文化活動までもが禁止されたことで、アルバニア系住民は猛烈に反発する。州都プリシュティナでは非暴力での独立を目指すイブラヒム・ルゴバをリーダーとして、セルビア政府とは別にアンダーグラウンドで独自の行政機関(KDL、コソボ民主同盟)を組織し、民家で私塾を開いて民族教育を施し始めた。
ちなみに当時の民族教育を受けた中には、ダルデンヌ兄弟監督の映画作品「ロルナの祈り」(2008年)で主演を務め、国籍取得のためにベルギーで偽装結婚をするアルバニア人女性ロルナの役を見事に演じきったアルタ・ドブロシがいる。
アルバニア共和国との国境に近い山岳地帯では、穏健派のルゴバとは別に武闘派組織も立ち上がった。ゲリラとして蜂起したKLA(コソボ解放軍)である。しかし当初、KLAはまったく求心力を持たなかった。筆者が1998年に訪れたプリシュティナでは、ほとんどの一般市民が「得体の知れない山の中の危ない奴ら」という印象を語り、中には「クビになって仕事が無くなったら山に行ってKLAにでも入るさ」と笑うサッカー監督もいた程度で、知名度が低く、せいぜいブラックジョークの種に使われるくらいの存在だった。
実際、南コソボのマレーシャボ司令本部で取材したKLA兵士たちはひたすら、アルバニア民族主義を連呼するだけで、野盗のような振る舞いも散見された。到底テクノクラートとしての行政能力があるようには見受けられず、まがりなりにも政治運営をしていたルゴバのKDLに比べればその存在感は無いに等しかった。1998年にはセルビア治安部隊とKLAの衝突も激化するが、当時はアメリカのバルカン特使、ロバート・ゲルバートもKLAをテロリスト集団と認定していた。
ところが翌年になるとそのアメリカが一気に手のひらを返す。アルバニア人に対し、セルビア治安部隊による虐殺があったとして、NATO(北大西洋条約機構)軍がユーゴスラビアへの空爆を開始するのであるが、これを主導したのが、アメリカであった。そしてなぜかここでアメリカは穏健派のルゴバではなく、それまでテロリストと認定していたKLAと友軍関係を結ぶのである。過激な集団とのコンタクトは、コソボ内にボンドスティール米軍基地を置くことを認めさせるためだったとも言われているが、空爆終結後にセルビア治安部隊が撤退し、コソボがUNMIK(国連コソボ暫定統治機構)によって国連統治下に置かれた後も、アメリカはKLAをパートナーとして警察官僚などに起用する。この判断が大きな悲劇を呼んだ。
空爆後に始まったセルビア人難民の受難
私がコソボにおけるセルビア人拉致被害者の存在を知ったのは、NATO軍による空爆の終結から約2年が経過していた2001年6月のことだった。