ユーゴスラビア連邦大統領がUNMIKの副代表と会合を行っている、セルビア首都ベオグラードの大統領府前で、国連の車両を囲むように座り込みを続ける100人ほどの集団を目撃したのである。
「問題を風化させるな!」と書かれたプラカードを掲げ、それぞれに行方不明となった家族の写真を手に持っていた。一団は、空爆終了後のコソボでさらわれた家族を探して欲しい、とユーゴ政府とUNMIKに直訴に来ていた、コソボを追われたセルビア人難民だった。
セルビア人拉致誘拐事件は、紛争後のコソボを監視すべき国連や、NATOが指揮するKFOR(コソボ治安維持部隊)が駐留している中でも、解決するどころか、逆に増え続け、この01年段階で被害者の家族たちから国際赤十字に提出された被害者名簿には、約1300人の名前が記されていた。単純計算すれば、およそ1日に2人が行方不明にされたことになる。
私は家族たちからの聞き取り調査を開始し、被害者たちがどのように行方不明にされたのかを書き起こしたが(『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ』05年、集英社新書)、そこで明確になったのは、コソボで拉致されたセルビア人は、医師、学生、農民、主婦など、ほとんどが民間人であったことである。聞き取り調査の後、日本人であるが故に移動の自由が利くコソボに入り、追跡取材も進めたが、被害者の行方は杳(よう)として知ることができなかった。
セルビア人拉致と臓器売買
驚くべき真相が明らかになったのは、08年の春のことであった。一冊の本が出版されたのである。『La Cassia : Io E I Criminali Dl Guerra(追跡 私と戦争犯罪人)』、著者はICTY(旧ユーゴスラビア国際戦争犯罪法廷)の検事を務めたカルラ・デル・ポンテである。ユーゴ紛争における戦争犯罪を捜査し、訴追し続けてきた任務をまとめた回顧録である。著書の中でデル・ポンテは、1999年ごろのこととして、KLAがコソボで拉致したセルビア人など約300人をトラックに乗せて国境を越え、アルバニア北部のブーレルという町周辺にある幾つかの拘束用の建物に監禁した後、簡易外科医院として整備された施設・通称「黄色い家」に連れ込んで内臓器官を摘出し、外国の富裕層の患者に密売していたという証言と証拠があった、と報告したのである。
「この情報源の一人はコソボのアルバニア人だが、彼自身が摘出した臓器を(アルバニアの首都の)ティラナ・リナス空港まで搬送したことを証言した。腎臓を一つだけ取られた被害者は、傷口を縫われ、再び拘置小屋に戻されたが、すぐに重要臓器の摘出が原因で命を落とした。それで小屋にいた他の拉致被害者も自分たちにどのような運命が待っているかを自覚しておびえきり、中にはすぐに殺してくれるように懇願した者もいたという。また他の二人の情報提供者はこうして殺された遺体を近くの墓地に埋めるのを手伝っていたと証言している。臓器の密輸はKLAの幹部が積極的に関わっていたのである」(『La Cassia Io E I Criminali Dl Guerra』より、2013年8月、実川元子訳)
1999年当時、国連統治下のコソボ共和国政府の首相はこのKLAの司令官であったハシム・タチであり、まさに首相自らが関与していた可能性を暗に指摘している。さらにデル・ポンテは実際にアルバニアに出向いて、「黄色い家」の捜査を行なうが、UNMIKなどの国際機関、およびアルバニア検察局がこの捜査に対して極めて非協力的であったことを伝えている。
このことは三つの大罪を伝えている。国連統治期に非戦闘員を拉致殺害し、それに政府関係者が関与していた疑いがあるという国家犯罪、次に被害者の臓器摘出をして国外に密売していたという組織犯罪、そしてコソボ紛争の戦争当事国ではなかった本国アルバニア(コソボのアルバニア人は本国=home countryという言葉を往々にして使う)に運ばれて行なわれたという国際犯罪である。
国際社会の罪
デル・ポンテの著作を受けて、欧州評議会法務人権委員会のディック・マーティ委員が約2年かけた調査の結果、2010年12月に報告書「Inhuman treatment of people and illicit trafficking in human organs in Kosovo(コソボにおける非人道的行為と臓器密貿易)」を発表した。実際に臓器密売が行われていた事実を証拠を挙げて告発し、記者会見では「衝撃だったのは、国際機関や西ヨーロッパ諸国、コソボ警察などはこの事実を知っていたのに、政治的な判断から口を閉ざしていたことだ」と述べた。
友軍関係を結んだKLAの犯罪が知られることで、NATO空爆という軍事介入の大義まで遡って問われることを恐れ、アメリカをはじめとする西欧諸国は見て見ぬふりをしてきたと言えよう。また、国連統治期にKLAをコソボの警察組織に登用してしまったために、この拉致悲劇は解決を迎えることができなかった。
「黄色い家」の現状はどうなっているのか。多くのジャーナリストや報道機関が押し掛けたが、すべて家主に拒絶され、暴動騒ぎに発展しているという。その現場には13年に行ってみた。アルバニア北部、収容所のあったブーレルから車で1時間以上かけて、舗装されていない山道を移動。そこからさらに歩いた。「黄色い家」は山頂に存在していた。
訪ねると「家」の主のカトューチ氏が激怒しながら出てきた。施設についての一切の取材を拒否。話を聞きたければ600ユーロ払えと要求してきた。