ウクライナ侵攻、開戦の日を思う
2022年7月、ワルシャワのテアトル・ノヴィ・カフェ。演劇人が愛用するこの店で、二人の人物が目の前にいる。そしてまったく別のことを言った。
「まさかロシア軍が、本当に国境を越えて攻めて来るとは思ってもいませんでした」
子どもたちへの環境教育を目的とするNGO「カルチャーラブ」を運営するマリア・シェメロヴァ。
「脅しだとばかり思っていた私は、だから侵略が始まった2月24日、ドバイの万博会場にいました。そこで戦争の一報を父から聞いたのです」
彼女はオデーサ生まれのウクライナ人で、現在はポーランド人の夫とワルシャワで生活している。
一方、「プーチンが戦争を起こすという情報は、かなり前から掴んでいた」と吐露したのは、ポーランド外務省のスポークスマン、ルカシュ・ヤシナだ。
「戦争が始まる8カ月前から、(親ロシア国の)ベラルーシのルカシェンコ政権から、動きが漏れてきました。他のヨーロッパ諸国も知っていたはずです。当然、難民が出ることは想定されましたが、ドイツやフランスも開戦したら考えようという姿勢で、我が国より豊かな国々はその流入を恐れていました。しかし我々は、隣人のために受け入れの準備を粛々としていたのです」
常にインテリジェンス(諜報)活動をしている外務省は情報を政府に上げ、ウクライナ難民受容の準備をしていたという。
「侵略されている国とのボーダーを閉めるのは、見殺しを意味する。そうなれば、未来永劫、隣国との外交関係は分断されてしまいます」
ところが、いざ地続きの大陸で戦争が始まると、逃げて来る民衆の数と速度は想像を絶した。
「政府は、開戦と同時にウクライナとの国境を開放する方針を打ち出して、難民を収容する手配をしていたのですが……。24日の夕方にはあらゆる国境線に移送の準備をはるかに超える大量の人がおしかけて来ました。とても対応しきれませんでした」
後に330万人が国境を越えて来ることになる。その初動の勢いはすさまじかった。ヤシナはこのとき絶望に支配される。
「私の生年月日は1980年2月24日。つまり誕生日が未来永劫、戦争のアニバーサリーになるのだという思いでいたところに、押し寄せる大量の難民の群れを見て、到底対応が不可能だと、暗澹たる気持ちになったのです」
しかし、予想外のところから、救世主が現れた。
「驚いたことに、開戦を知ったポーランド市民が次々に自家用車でボーダーに駆けつけて来て、見ず知らずのウクライナ難民の家族たちを自宅へ招き始めました。やがてステイさせる家庭に補助金も出るようになりましたが、当初はまったくのボランティアでした。そもそも政府が何かをやれと言うとポーランド人は反抗してやらない。そういうメンタリティなのは、役人である我々は嫌でも知っていたのですが、想像以上のことが起こりました」
ポーランド市民の献身
スターリンが言ったとされる「乳牛に鞍(くら)」という言葉がある。
ポズナニ暴動
1956年6月、共産党支配下のポーランドにおいて、西部の工業都市・ポズナンで起こった市民による最初の反政府暴動。ポーランドが非スターリン化するきっかけとなった。
ラドム事件
1976年6月、食料品などの値上げに抗議し、ポーランド中東部の都市・ラドムで起こった暴動。
「連帯」運動
ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。