ポーランド人はお上からの押しつけを蛇蝎(だかつ)のように嫌い、個人主義を尊ぶ。そこに社会主義や官僚主義を押し付けるのは、乳牛に競走馬用の鞍をつけるようなものだという喩えである。実際、社会主義の軛(くびき)をはめられた時代も、古くはポズナニ暴動、3月事件(連載第19回参照)、ラドム事件、そしてレフ・ワレサの「連帯」運動と、民衆の政府に対する反発は、古くから根強くあった。今回のウクライナ難民の受け入れも、政府が国境を開放することに対して、異議の発信とともに抵抗する勢力がいたとしてもおかしくはない。武装して来ないか、犯罪者が紛れ込まないか、自分たちの仕事が奪われないか、社会が乱れないか……、難民を受け入れない理由を挙げれば、どこの国も似たようなものが出てくる。ましてや、ここ数年、極右政党「法と正義」が政権を握るポーランドはEU諸国の中でも移民に対して不寛容な国として知られていた。しかし、国内世論において、ネガティブな声はほとんど聞かれなかった。
「不平不満を言うどころか、誰もが自発的に動いてくれていました。とても政府だけでは、支えきれなかったのですが、特に東部ポーランドの市民の動きは献身的で、私は国境の町、ゾシンに生まれ育った者として誇りに思ったものです」
ヤシナが胸を張った横で、シェメロヴァが民間人が協力を惜しまない理由を語った。
「国境に辿り着いたウクライナ人たちが、どれほど酷い攻撃を受けて逃げて来たのかは、風体を見れば一目瞭然でしたからね。ポーランドには、留学あるいは、出稼ぎで来ているウクライナ人もたくさんいる。私と夫のようなカップルはすでにたくさん存在しています。私の意見ですが、ウクライナ人はポーランドに入ると、とても早く順応するのです。それを私たちは『同化』と捉えません。融合とか、融和とか、ポジティブに考えています。私たちはすでに一緒に住んでいるのです」
ウクライナとポーランド、それぞれの“血の染み”
確かに2014年のクリミア侵攻時を境に移住して来たウクライナ人の数は多く、ワルシャワでもそこかしこにウクライナ人を見かける。このカフェのウェイターもドニプロの出身だった。とは言え、ポーランドとウクライナは、まず言語が違う、文字もラテンとキリルで異なる、宗教も片やカソリックで片や東方正教である。1991年に始まったユーゴスラビア紛争では、このうちの文字と宗教の違いだけで(言語は方言ほどの差異しかなかった)、民族の違いがことさら煽られて悲惨な民族浄化が巻き起こった。その現場を取材してきた者としては、これだけのギャップがあれば、悲しいかな対立が煽られて、援助するどころではないのではないかと思ってしまう。
加えて歴史的にも両国は何度も紛争を繰り返してきた。ポーランド軍がリヴィウに侵攻したウクライナ・ポーランド戦争(1918~1919年)、第二次世界大戦中、ウクライナの武装民族組織がポーランド人の村を襲ったヴォリンの虐殺(1943年)、大戦後にポーランド領土内に住むウクライナ人をポーランド政府が強制移住させたヴィスワ作戦(1947年)など、両国、両民族には、それぞれに大義と主張と、自分たちこそが犠牲者だとする負の記憶がある。それにもかかわらず、ポーランド側の援助には、いささかのためらいも見られない。この点を問うと、ヤシナはこんなふうに答えた。
「過去の悲劇の清算について言えば、ポーランド人の一般的な議論の中では、ヴォリンの虐殺がよくあがっていました。あそこは、もともとはウクライナの土地だったのですが、ナチスドイツと同盟を組んでいたUPA(ウクライナ蜂起軍)によって、約4万人のポーランド人が殺されました。しかし、謝罪も賠償もありません。これを理由にポーランドの右派が分断を狙って、ウクライナ難民受け入れ反対を叫びましたが、それは少数者でした。一方でヴォリンについては触れるなという意見もありましたが、それもナンセンスで、触れた上で難民を受け入れれば良いだけの話です」
プーチンが、ウクライナにネオナチがいると主張するのは、この歴史のことを踏まえて言っている。
「残念ながら、歴史論争の面も含めてポーランドとウクライナは、ポーランドとドイツが政府間で成し遂げた和解の域までいっていません。ドイツとの和解は、西ドイツのブラント首相がワルシャワゲットー記念広場の銅像の前にひざまずいたところから始まり、ポーランドの司教がドイツ司教に赦すという手紙を送りました。この二つの象徴的なステップが、和解への道を描きました。ポーランドとウクライナの和解はそこまで進んでいませんが、それでも今は、ロシアの残虐行為の前にそんなプロセスが吹き飛んでいます」
シェメロヴァは「当然の流れでした。和解プロセスを経る以上のスピードで支援が必要とされていたのですから」と言う。
ヤシナは、それはまた互いの理解にとって良いことだと捉えている。
「現在のこの両国、両民族の接近のおかげで、ウクライナ人は、自分の祖先が起こした“血の染み”を発見できるし、ポーランド人もまた同様に過去の加害について気づきます。しかし、二人(両国)の共通の敵は決して寝てはいない」
それはロシアか、と訊くと、言わずもがなとシェメロヴァは頷く。
「今、ポーランドに感謝していないウクライナ人はいません。しかしポーランド人は言います。お礼はいらない、ウクライナがロシアにやられたら、次に自分たちがやられる番なのだからと」
ヤシナは、いやその上でもうひとつ共通の敵がある、と言った。
「それは自らの愚かさです。駐ドイツのウクライナ大使は、ベルリンで『ポーランドの過去はドイツとロシアに匹敵するくらい罪深い』と発言しました。彼は『ヴォリンの虐殺は先に挑発したポーランド人が悪い。それによって起きたに過ぎない』と言ったのです。歴史修正ですね。お互いを信じ合うことができなければ、このミッションは成功しません」
22歳のときに明仁天皇(当時)にワルシャワで会って握手したことがあるというヤシナは、日本と朝鮮半島の関係もそうでしょう?と続けた。
ポーランド外務省としての失敗は?と訊いた。
「戦争が続いているし、また波が来るかもしれない。私たちは、民間で支援しているポーランド市民を十分に支援しきれなかったことかな」
難民への手厚い支援
ワルシャワ市内には、至るところに難民向けにウクライナ語のインフォメーションが貼られている。
ポズナニ暴動
1956年6月、共産党支配下のポーランドにおいて、西部の工業都市・ポズナンで起こった市民による最初の反政府暴動。ポーランドが非スターリン化するきっかけとなった。
ラドム事件
1976年6月、食料品などの値上げに抗議し、ポーランド中東部の都市・ラドムで起こった暴動。
「連帯」運動
ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。