パスポートやIDを持っていなくとも難民申請の手続きができるということ、どこへ行けば、食料や宿泊の世話をしてもらえるか。さらには、難民を狙った犯罪に対する注意書きまである。
「偶然知り合った人の輸送機関を使う場合は必ずグループで。そして必ずナンバープレートを写真で撮って下さい。もしも人身売買の脅威を感じた場合は警察のナンバー1122にかけて下さい」等々。
市内には、通訳が常駐しているPolish Center for International Aid refuge point(通称「難民ポイント」)があり、第三国への移動を希望する難民のために無償航空券の手続きをしたり、国内に留まりたい人への就職を斡旋したりしている。このジャンルは政府よりもフットワークの軽いNGOが中心となっており、特に就職に関しては、直接、雇用主と連絡を取って、履歴書の書き方の指導や、就職をしやすくするためのワークショップを行っている。
これら手厚い庇護を求めて、2月24日の開戦から夏までにポーランド国境を越えたウクライナ難民の数は330万人以上。その後、この地での定住を望み「ペセル(PESEL)」(マイナンバーに相当するもの)を取得したのは150万人以上。大国ドイツがポーランド経由で受け入れた数字が約35万人であるから、ほぼ4~5倍である。
筆者はヤシナに「一方での批判ですが」と続けた。「シリアを含める中東からの難民に対するポーランド政府の拒否反応は根強いですね。白人以外は入れないのでしょうか?」
終始、ロジカルに応えてきたヤシナだが、この質問に対する答弁だけが、役人くさいものであった。
「それに関しては合法的か否かによります。ウクライナ以外の国々、北アフリカ、ベネズエラ、シリアからの難民申請者もいましたが、すべて非合法で来た人たちです。ブローカーに膨大なお金を払ってベラルーシのミンスクまで空路で来て、そこからルカシェンコ政権がポーランド国境を越えさせようとしていた。それを拒否したというだけです」
難民受容に政治や外交を持ち込まないというのは、鉄則である。聞いてもいないベラルーシ大統領の名前を出して批判に繋げるところに、やはり、その生臭さを感じてしまう。ポーランド政府が、中東、アフリカ諸国の難民に冷淡なのは、紛れもない事実だ。それでも戦争が始まると同時に国境を開けて、この国の官も民もともに隣人を迎え入れたことには、ただ驚嘆する。2018年以降、ミャンマーから逃れたロヒンギャ難民約80万人を隣国のバングラデシュ政府が受け入れたが、実態はキャンプでの隔離政策であり、社会が市民として受け入れたとは、言い難い。
「そろそろ公務に戻る時間なので……」
二人は腰を浮かせた。ヤスナもシェメロヴァも戦時下を懸命に生きている。礼を言ってカフェを辞した。
歴史的対立を超え、共生へ
先述した歴史認識を乗り越えてのウクライナ難民との共生に向けた取り組みには、興味をそそられた。先述したポーランドの政権与党であるカトリック右派「法と正義」は、2018年に歴史教育に対する新法を成立させている。これは、第二次大戦中にポーランド人がナチスドイツの戦争犯罪に加担していたという事実を教えたり、批判することを罰則規定まで設けて禁じる法である。ナチのユダヤ人迫害に加担したポーランド人の存在は、学術的にも証明されており、新法はナショナリズムを煽りたい政権が自分たちの都合の良いように歴史教育に介入したものである。いわば、ポーランド版の「教育と愛国」(連載第26回参照)である。そんな政権下ではあるが、ポーランドの学術界は、ひとつの研究所をウクライナ戦争が勃発する前日に開設していた。
National Heritage of the Republic of Poland(ポーランド国民文化遺産研究所)内のPolish Support Center for Culture in Ukraine(ウクライナ文化支援センター)という。ポーランドとウクライナの共同研究によって、ウクライナの文化遺産を保護する目的で設立された組織である。座長の女性、ザネタ・グワジェンスカに開設の趣旨はと訊ねると、「古代ローマの時代から、文化は決して1つの国の固有のものではなく、流動的に行き来していてその恩恵を人間は受けている。だからこそ、我々は国境をまたいでウクライナとの研究を進め始めました。2月23日に開いたというのは、まったくの偶然でしたが」と答えた。
翌日から戦争が始まり、予定していた平時の学術研究の連携の中身が、戦争時のそれに自然と変わっていった。ロシア軍によるウクライナ文化遺産の破壊の調査がメインになったのだ。
「ロシアが意図的に破壊しているのは教会をはじめとする宗教関係の施設が多かったのです。これまでに世界的な文化遺産が26か所と22か所の図書館も破壊されています。象徴的なのは、ジトミール郡にあるヴヤジウカという村にあるギリシャ正教の木造教会の破壊、もう1つは、キーウの近くのザヴォーリチ村にある教会、これは1873年に造られた教会なのですが、跡かたもなく燃やされてしまったのです。ロシア軍のやっていることはまさに文化破壊です」
ウクライナはロシアの一部というロシア側の主張からすれば、ウクライナ固有の歴史遺産は邪魔となる。ユーゴスラビア紛争の間、コソボで中世から続くセルビア正教の建造物を、コソボ独立を目指すKLA(コソボ解放軍)が破壊した行為にも通底する。
「このような破壊が起きると、ウクライナの専門機関から報告を受けて、必要とされる品目を出してもらって彫像品などを保護できる材料を提供しています。4月に、私たちは、ウクライナの機関から100回以上にものぼる要請を受けました。その支援を日常的に行っています。同時にウクライナ人の安全を守るために常に気を遣っています。ロシア軍に探知されないように『ネット上に写真をアップしないで下さい』というような指導を続けています。私たちにとっては、まず彼らの安全が最優先ですから」
ポズナニ暴動
1956年6月、共産党支配下のポーランドにおいて、西部の工業都市・ポズナンで起こった市民による最初の反政府暴動。ポーランドが非スターリン化するきっかけとなった。
ラドム事件
1976年6月、食料品などの値上げに抗議し、ポーランド中東部の都市・ラドムで起こった暴動。
「連帯」運動
ポーランドを一党支配していた「統一労働党」に属さない組織として、1980年に設立された独立自主労働組合。初代委員長はレフ・ワレサ。「連帯」の組織は全国に広がり、最盛期には1000万人近い労働者が加盟した。81年に政府が戒厳令を布告したことで多数の幹部が拘束されたが、残った組合員が地下活動を始め、政府への抵抗を続けた。