これが止むに止まれぬ故郷への思慕として報道され、日本でも6月23日の「朝日新聞デジタル」では「憶測呼ぶ『ワシ』ポーズ、秘めた思いは スイス2選手」というタイトルの記事が公開された。4年前にシャチリとジャカにインタビューした記者によるもので、スイスで移民として暮らすことの苦労話がとうとうと綴られ、「かつてシャカ(本文ママ)は『スポーツと政治は切り離すべきだ』ときっぱり話していた。セルビア戦で見せたあのポーズは、国際サッカー連盟(FIFA)が禁じる政治的宣伝だった、とは思えない。故郷はいつだって、誰にとっても特別だ。たとえ住んでいなくとも、故郷に認めてもらいたい――。そんな心の叫びだったのではないだろうか」と締めくくられている。
とても情が深く真面目な記者なのであろう。自身の体験から二人の選手への憐憫の情を見せている。
しかし、コソボ建国の歴史と現在の国内の状況を少しでも知っていれば、とてもではないが、二人のパフォーマンスが政治的宣伝ではなかった、とは書けないはずである。
確かにコソボにおいて人口が圧倒的に多いのはアルバニア人であるが、そもそもコソボはセルビアからの独立を宣言した際、多民族国家としてスタートしている。歴史的なセルビアの宗教施設が数多くある上に、すでにアルバニアという国がある以上、そうでなければEUや欧州議会などヨーロッパの各機関から独立承認を得られなかったのである。
繰り返すが、コソボはセルビアからの独立を宣言したのであって、アルバニアと合併したのではない。コソボの国旗はヨーロッパの色である青を下地に岐阜県ほどの面積を持つその地形と六つの星があしらわれている。星はアルバニア、セルビア、ボシュニャク、トルコ、ゴラン、ロマの6民族を象徴するものである。多言語であるため、国歌もまた敢えて歌詞を作らずメロディーのみとなった。コソボは決してアルバニア人の単一民族国家ではなく、制定されたコソボ憲法においてもコソボに暮らす多民族の国という定義がなされているのである。
「コソボのサッカーはひとつの民族のものではない」
事実、コソボ代表チームもそのフィロソフィーの中でチームを作ってきた。今年6月9日、その牽引役であり、コソボサッカー協会の会長であったファディル・ヴォークリが57歳で亡くなった。ヴォークリはコソボ出身のアルバニア人であるが、旧ユーゴスラビア時代にセルビアのクラブチーム、パルチザン・ベオグラードで活躍した。
パルチザン時代は、特に名古屋グランパスのヘッドコーチとしてストイコビッチ監督を支えたボシコ・ジュロフスキーの実弟、ミルコ・ジェロフスキーとのタンデムで猛威を振るい、107試合で55ゴールをあげた。「もし(代表としての)力があるのが(被差別民族とされた)コソボのアルバニア人だったら、私は躊躇なくそれで11人全員を揃えるだろう」と宣言したイビツァ・オシム元ユーゴスラビア監督の召集に応じて代表にも選出され、当然セルビア人サポーターにも愛されていた。ユーゴ代表では、1987年に欧州選手権予選、北アイルランド戦において、オシムの故郷サラエボで決めた2ゴールが有名である。
紛争が始まりコソボがユーゴから離脱すると、ヴォークリはコソボ協会の会長に着任し、FIFA加盟に向けて奔走した。コソボはいまだに国連加盟国の半数近くから国家として承認されていないが、ヴォークリは現役時代のパイプを活かし、またセルビア人のスタッフも積極的に起用してロビー活動を展開。2016年5月13日のFIFA総会でついにジブラルタルサッカー協会とともに承認されたのである。
そのヴォークリが常に言っていたのが、「コソボのサッカー、コソボの代表はひとつの民族のものではない」というものであった。
会長のスローガンだけではない。コソボの建国の理念に基づき多民族チームを目指したのは、現場も同様であった。一昨年、W杯ロシア大会のヨーロッパ予選が始まる際、代表監督のアルベルト・ブニャーキは国内のボシュニャク人やクロアチア人、セルビア人のプレイヤーにも声をかけていた。コソボの独立を認めていないセルビア人はコソボ代表への参加を拒否していたが、ブニャーキは決してあきらめてはいなかった。
そしてもちろん、在外のコソボ出身のアルバニア人選手にも入念な調査を行ってオファーを出していた。ブニャーキが中でも執心したのは、ベルギー代表でプレーするヤヌザイ、そしてジャカとシャチリだった。「一緒にコソボ代表で戦わないか」と頻繁に電話をかけ続けていた。
しかし、彼らはこの申し出を断っている。コソボはチームとしてまだ脆弱であった。環境も整い、W杯出場により近いスイス代表を二人が選択したのはもちろん何も悪いことではないし、選手としては賢明な判断とも言えよう。それは尊重されるべきである。しかし、それならば、あのような大アルバニア主義の鷲のポーズをセルビア代表の前でするべきではない。
むしろ苦闘するコソボ協会のことを何も分かっていないと言えよう。
アルバニア民族主義がコソボサッカーを追い詰める
コソボ協会が民族融和に腐心している例はほかにもある。FIFAは原則的に、国同士の代表試合でサポーターが自国以外の国旗を掲げることを禁止している。コソボサッカー協会には特に、コソボ以外の国旗(ここではすなわちアルバニア国旗)をサポーターに振らせることを禁止するよう、重ねて通達を出していた。コソボとアルバニアは別の国家である。トルコ人が多数を占める北キプロスがFIFAに承認されたとしても、トルコの国旗を振ることは許されないだろう。
ブニャーキ代表監督はサポーターグループに向けて「スタジアムではあくまでもコソボ国旗での応援をお願いしたい。双頭の鷲のアルバニア国旗は持ち込まないでほしい」という呼びかけを繰り返した。ところが、これに対して公認サポーターグループである「ダルダネット」を中心に猛烈な反発が起こった。筆者は取材中に、ダルダネットのリーダーが公開トレーニングの際に練習場にやってきて、ブニャーキに「あんたはいったい何人なんだ? アルバニア人じゃないのか?」と食ってかかるシーンに遭遇した。ブニャーキは「FIFAの国際的なルールなのだ。従ってくれ」と説得しようとするが、「裏切り者」という罵倒を浴びせられた。
ことほどさように、コソボサッカー協会は必死に民族融和への道を探っているのが、現状である。これに対して、大アルバニア主義のジェスチャーをする行為がいかに政治的な意味を持つか、シャチリとジャカが知らないと考えるほうが、残念ながら不自然である。あのポーズは、彼らのルーツであるコソボの「独立」ではなく、国境を越えて領土拡大することを、つまりは「侵略」を肯定していることになる。それを、サッカーの試合でスイス代表選手が「コソボ」というワードを使って対立していた民族の前で行うことの愚かさ。前述の朝日新聞記事に書かれたような、差別を受ける移民のアイデンティティーの発露ではないのだ。あの大アルバニアポーズを見たコソボのマイノリティーである非アルバニア人、セルビア人やロマたちがどれほど恐怖を感じたのか、想像するに難くない。
日本の報道の偏り
しかし、日本ではこういった経緯や背景を全く理解しない記事が相次いだ。「東京新聞」(7月3日)の投稿欄には、国際NGO代表の男性による、あのジェスチャーは「『カズダンス』に似た表現」で政治的ではないという主張が掲載された。しかし、ジャカとシャチリはセルビア戦以外ではこのポーズをとっていない。鷲のポーズはセルビア戦において最も自重すべき行為である。男性はNGO職員として、現在のコソボ内の少数民族が置かれた人権状況を少しでも知っているのだろうか。逆にセルビアの選手が、ゴールのあとに民族の象徴である3本指のサインをアルバニア系選手に示したとしたら、それも「カズダンス」と言うのだろうか。そもそもカズダンスに民族的、政治的な意図などない。カズダンスに対する侮辱である。
コソボのアルバニア人が「自分はコソボ人ではなくアルバニア人だと」と自認するのはもちろん自由である。「コソボとアルバニアが合併してアルバニアの単一民族国家を作るべきだ」と主張するのも、支持されるかどうかは別として、言論としての自由だろう。問題はW杯というサッカーの大会で、セルビア代表の前であのジェスチャーをしたことなのだ。民族的な挑発行為はセクハラ、パワハラと同様で、被害を受けた側がどう捉えるかが肝要だ。
コソボ・メトヒヤ
旧ユーゴスラビア連邦セルビア共和国の一部に1945年に設立された「コソボ・メトヒヤ自治区」のこと。1963年には「コソボ自治州」に改称した。セルビアは2008年のコソボ共和国独立宣言を承認しておらず、コソボに対し「コソボ・メトヒヤ」という名称を常に用いている。