少しずつ変化する難民キャンプ
ミャンマー軍による迫害を受けて、バングラデシュに流入し続けるロヒンギャ(ミャンマー西部ラカイン州在住のムスリム)難民の数は増加の一途を辿り、70万人を超えたと言われている。2018年1月12日に河野太郎外務大臣がミャンマーのアウンサンスーチー国家最高顧問と首都ネピドーで会談し、日本政府としてロヒンギャ難民帰還のために支援を申し出ていた。
1月16日、その帰還事業をこれから定点観測していくために、バングラデシュのクトゥパロン難民キャンプを3カ月ぶりに訪れた。乾期に入っているために雨の心配は不要であったが、そのかわり、朝晩の冷え込みは厳しく、着の身着のままで避難してきた難民にとっては厳しい季節だ。
丘の上に急ごしらえで作ったテント群とあふれ返るような人の多さは相変わらずであった。それでも少しずつ改善されていく施設の変化は感じられた。井戸、そしてトイレがかなりの数、増設されている。キャンプ内には小さな雑貨商店もできて、活気が出てきた。クトゥパロンと近接するバルハリキャンプには、手作りのセパタクローのコートもできて、子どもたちが歓声を上げながらボール遊びに興じる様子が見てとれた。
未来の子どもを守る、小学校が開校
キャンプにおいて何より大きな変化は、小さいながらも学校が完成したことである。自身もロヒンギャ難民でありながら、日本国籍を取得したアウンティンは、私財を投じて小屋を建て、教師に給料を払っている。
民族浄化が酷くなった昨年から何度もキャンプに入り、支援を続けているアウンティンはいかに教育が重要であるかを力説するのだ。「難民キャンプの生活は誰もが大変だけれど、大切なのは未来のある子どもたちをどう守るかだよ。まだ言葉も話せない幼児もいるし、親を殺された孤児もいる。昼間に家の外に出てウロウロしていると、誘拐される危険もある。何も学ばずに大人になってしまうと、自分の身を守ることもできない」
ロヒンギャの子どもを狙う人身売買のシンジケートの存在が、いかに脅威になっているかは連載第1回にも記した。現在、キャンプ内にいる孤児の数は2万4000人を超えている。学校を作ったのはふらふらとテントの外を出歩くことを防いで、集団生活をさせることで安全を担保するためでもあるが、もちろんそれだけではない。身体だけが成長しても文字も読めず、計算もできない、生きる術が無ければ、食べていくためにマフィアになるしかないではないか。あるいはイスラム過激派の勧誘に乗って「イスラム国(IS)」かアルカイーダに入るか。しかし、きちんと学問と宗教を教えることができればそれを未然に防ぎ、子どもたちの将来の選択を広げることに繋がる。
和室で言えば12畳ほどの小屋が教室で、天井も低く、電気が通っていないかわりに窓が広く取られている。ここに入れかわり立ちかわり、約400人の子どもが集まる。授業は6時から9時までがアラビア語、9時から昼まではミャンマー語、英語、そして算数の科目が続く。教師は全員で5人、このうち校長のサリドスラムに話を聞いた。若い、35歳である。彼が生まれる1年前にビルマ市民権法(国籍法)が制定されて、ロヒンギャはミャンマー国籍を剥奪(はくだつ)された。サリドスラムはいわば生まれながらの無国籍者である。それでもミャンマー国民としてのアイデンティティーを一度も捨てたことはない。17年の9月にラカイン州北部のマウンドー地区から逃げてきた。「それまでも村で14年間教師をしていました。私たちに対する迫害は長く続いてきたけれど、去年(17年)の8月からはじまったジェノサイドは本当に酷い。思い出したくもないが……」
目の前で人が殺されたり、レイプされたりするのを何度も見た。生まれ育った父祖の土地を捨てたくはなかったが、今回ばかりは逃げないと命が危ないと思ったそうだ。飲まず食わずで山に分け入って必死にバングラデシュ国境を越えた。ここまでくれば殺されることはない。クトゥパロンキャンプに入り3カ月が経ってようやく学校ができた。教師は天職だと思っていると言う。
「子どもにとっては何より勉強が大事。それが人間として生きるための財産になる。この財産はもう奪われたり、燃やされたりしない」
セパタクロー
「セパ」はマレー語で「蹴る」、「タクロー」はタイ語で「籐製のボール」の意味。ネットを挟んでボールを蹴りあう、手を使わないバレーボールのようなスポーツのこと。