子どもの教育方針を巡って、両親が言い争いをしている。「勉強しないと、いい学校へ行けず、いい会社にも入れませんよ!」と、子どもを縛りつけようとする「教育ママ」に対して、父親は「自由放任主義」。子どもの自主性に任せるべきで、親が干渉しすぎると、逆に道を誤ってしまうというのである。
自由放任パパvs.教育ママ。同じような議論が、経済政策においても展開されてきた。政府を「親」、国民を「子ども」と考えよう。政府は経済成長率といった「成績」を上げようと努力する。その教育方針が経済政策であり、「自由放任主義」はそのなかでも中心的な役割を担い続けてきた。
自由放任主義の教祖が「国富論」を書いたアダム・スミスである。スミスは、経済政策において政府の介入は必要最小限であるべきだと主張した。企業や個人は、少しでも利益を上げようと一生懸命働く。そこで、自由に経済活動をさせ、競争原理を徹底すれば、「神の見えざる手」が最も望ましい方向に導いてくれると考えた。したがって、政府が行うべきことは国防や警察などの最小限にとどめるという、いわゆる「夜警国家」を理想としたのだった。人々の経済活動について、「性善説」に立っているのが自由放任主義であり、子どものやることに親は口出しをするべきではないというのが、自由放任パパの方針なのである。
自由放任主義の経済政策は、政府の介入をできるだけ少なくしようとする。したがって、景気が悪くなっても公共事業を増やすといった直接的な景気刺激策には否定的な立場に立つ。そして、減税をして負担を減らす一方で、規制緩和を進めて、競争を促進させ、それによって景気を良くしようとするのである。また、市場原理も尊重、少々の値上がりが発生しても規制などはしない一方で、急激な値下がりで損失を受けた人が生まれても、安易な救済をするべきではないと考える。安易な救済は「甘え」を生み、経済の効率を下げてしまうというのだ。成績が下がっても、無理やり塾に行かせたりはせず、自分で勉強するようになるまで見守るというわけなのだ。
自由放任主義は、政府の役割を減らす「小さな政府」へとつながって行く。しかし、これは同時に弊害も生む。競争を重視することは、「弱肉強食」「働かざる者食うべからず」と、自己責任や自助努力を強調することから、社会保障や福祉が削減され、格差の拡大をもたらすことにもなる。「小さな政府」を目指す自由放任主義は、半面で「強者の政策」であり、「弱者切り捨て」の側面も持ち、落ちこぼれに冷淡な政策でもあるのだ。
こうした自由放任主義を真っ向から批判しているのがケインジアンだ。J.M.ケインズの経済学に基づいたその経済政策は、自由放任主義とは正反対だ。「神の見えざる手」に任せるとうまくいかなくなるという「性悪説」の立場から、政府が積極的に介入し、「大きな政府」と「規制強化」によって、監視・監督を強めるべきだと主張した。その一方で、福祉などを充実させ、格差もできるだけ縮小させようとする。口うるさいが、優しさも持つ教育ママの経済政策なのだ。
小泉純一郎元総理は「自由放任パパ」として規制緩和を推し進めて成果を上げたが、格差拡大といった弊害も指摘され始めている。優勢だった「自由放任主義」だが、徐々に陰りが見え始め、「自由放任パパ」の人気も落ち始めているのが現状なのである。