「国庫支出金」も、同じような性格を持つお金である。政府を親、地方自治体を子どもと考えよう。地方自治体の財源が十分でないことから、政府は様々な形で財政上の援助を行っている。その中核を担っているのが「地方交付税」で、使い道が自由な「お小遣い」と考えられる。「国庫支出金」も同様に、政府が地方自治体に支出するお金だが、最大の違いは、使い道が限定されていることにある。
国庫支出金は、国と地方自治体が共同で行う事業などについて、政府の負担分として支出される。したがって、支出される段階で「これは道路を整備するお金です」「このお金で、学校の先生に給与を支払いなさい」と、使途が厳格に決められていて、転用は許されない。
国庫支出金の中心は、「国庫負担金」と「国庫補助金」だ。
「国庫負担金」は、国と地方自治体が協力して行う事業の中で、国民生活になくてはならないものを対象としている。幹線道路や橋、社会福祉の施設といった形のあるものの他、義務教育の費用や生活保護費なども含まれる。憲法で保障された最低限の生活を営む権利(ナショナルミニマム)のための費用で、「義務的補助金」とよばれることもある。
「国庫補助金」も、「国庫負担金」と同じように国と地方自治体が共同で行う事業への補助だ。しかし、こちらは例えば「文化センターの建設」といった、「あったらいいな…」という事業を対象としていて、「奨励的補助金」とよばれることもある。国民負担金が「勉強のためのノート」という必要不可欠なものを買うためのお金なら、国庫補助金は「新しいグローブ」といった、我慢しようと思えばできるものへの支出なのだ。
国庫負担金と国庫補助金をまとめて「国庫負担補助金」とよぶこともあるが、これを得るためには、地方自治体が政府に「こうしたことに使いたい」と要望することから始まる。これが活発になるのが毎年夏から年末にかけての予算編成の時期で、各省庁に地方から陳情団が押しかけ、ここに道路を通して欲しい、ここに学校を建てて欲しいと要望することになるのだ。
しかし、国家財政は火の車、なかなか認めてはもらえない。そこに、地元出身の政治家が登場する。「なんとか、道路を造ってくれないかなぁ…」と政府に直接交渉するのだ。「ノートを買いたい」「今度は野球のグローブが欲しい」と押し寄せてくる子どもに、「そんな余裕はありません」と渋る親。そこにおじいさんがやってきて、「買ってあげればいいじゃないか」と、親を説得する。こうした攻防の結果、必要のない公共事業など、非効率で無駄な支出が行われる場合も少なくない。
また、国庫支出金の決定権を政府が握っていることから、地方自治体の自由を奪っているという指摘もある。「お小遣いが欲しいなら、親(政府)の言うことに従いなさい」というわけだ。また、使用制限があることから、余ったお金は返却しなければならない。そこで、無理をして使い切ってしまおうという自治体も出てくるのだ。
こうした弊害を解消するために、三位一体の改革が行われた。使途制限のある国庫支出金を減らす一方で、自由に使える地方交付税を増やし、国から地方への税源移譲も行われたが、改革は不十分だという指摘が大半だ。
国庫支出金を通じて、国が地方を支配するという「親子関係」が、依然として続いているのが日本の現状なのである。