こうした状況は企業買収の現場でも起こる。「偶発債務」(偶発負債、偶発損失)の取り扱いだ。偶発債務は、現時点では債務ではないものの、一定の条件が整えば現実化する「債務の芽」のようなもの。係争中の裁判で敗訴した場合の損害賠償金や取引先が倒産した場合の損失、製品に不良品が発生した場合のリコール費用など様々なものが考えられる。企業を買収する際には、資産や債務のチェックである資産査定を綿密に行い、買い手と売り手が納得した上で契約が交わされる。偶発債務についてもその大きさや実現可能性についての評価が行われ、内容次第では買収価格の引き下げ、さらには買収断念に至ることもある。マンションを購入する際、将来生じ得る問題点を洗い出すように、企業買収においても偶発債務についての慎重な検討が行われているというわけだ。
買収交渉の場合のみならず、企業経営のリスクを把握するためにも、偶発債務を明確化し、決算に損失として反映させるべきだとされているが、そのルールは必ずしも明確ではない。国際会計基準審議会(IASB)が定める「国際財務報告基準」(IFRS)では50%以上、アメリカの会計基準では80%以上の確率で発生するものを、可能性が高い(probable)偶発債務として処理すべきとしているが、日本にはルールすらない。また、損害賠償の裁判で負ける確率や、製品のリコールが発生する危険性を正確に算出するのは困難であり、都合の良いように扱われることも少なくない。マンションに小さなひび割れが見つかった場合、現時点では問題がなくても、震度7クラスの大地震に襲われたら大きなダメージになる可能性がある。これを偶発債務とするかどうかの判断は、売り手と買い手で大きく分かれるのが実情なのだ。
偶発債務が大きな問題になったのが、台湾の鴻海精密工業による、日本の大手家電メーカー、シャープの買収交渉だ。シャープは2016年2月25日、鴻海精密工業から前もって提示されていた総額4890億円の買収案を受け入れることを決めたが、鴻海精密工業はその前日にシャープから届いた偶発債務のリストを見て正式契約を延期。偶発債務の詳細は明らかにされていないが、報道によれば最大で3500億円で、退職金や他社との違約金、政府からの補助金の返還などが含まれていたという。シャープは、偶発債務は事前の資産査定で報告済みであり、大半は債務になる可能性は小さいと説明したが、鴻海精密工業は納得せず、交渉は1カ月も延長。結局買収金額を約1000億円も引き下げることで同年4月2日に契約が成立した。「小さなひび割れがいくつかありますが、これが大きくなることはありません」というシャープに対して、「ひび割れが大きくなる可能性は十分にある」として、鴻海精密工業に購入価格を値切られる結果となったのだ。
最終的にはマンション購入を見送った筆者だが、懸念していた眺望を遮るマンションが建つことはなく、「お買い得だったかも……」との思いもある。偶発債務をどう捉えるかは、売り手にとっても買い手にとっても悩ましい問題なのである。