若松 「命」と「いのち」とは同じではないということは、今回のコロナ危機において私たちが直面した事実でもあったと思います。たとえば、感染者数が減っている時期においては、私たちの身体的な生命は少し安心できる状況にあるかもしれない。しかし、いのちの危機は依然、続いている。少なくともリーダーは常にそう考えなくてはならないと思うのです。なのに、そうした感覚がこの国のリーダーたちにはいつからなくなってしまったのだろうと、この2年間ずっと考え続けていた気がします。
中島 感染拡大が始まった最初のころは特に、命の数値ばかりが語られていましたよね。東京で陽性者が何人、全世界で死者が何人というふうに、すべてが「何人」で片付けられていた。そのことに、私自身も非常に傷ついていた部分があったように思います。
今でも、私たちもつい「ああ、ずいぶん感染者が減ったね、1日30人を切った」などと言ってしまうけれども、本当はその「30人」の一人ひとりに家族がいて生活があり、いのちがあるわけです。それを統計的に、命の数値だけで判断しようとする「命の統計学」みたいなものに対抗して、「いのちの政治学」をどう立てればいいのかというのが、私たちの対話の起点になったと思います。
若松 おっしゃるとおり、私たちはしばしば命を数量化します。しかし、いのちのほうは徹底的に質的なものであって、数量化されることを拒む。にもかかわらず、政治はそのいのちをいつからか見なくなって、人を数値化して束ねることによってのみ処理するようになってしまったのだと思います。
ナチスドイツは強制収容所に新しく囚人がやってくると、まず衣服を脱がせ、所持品を奪って、新しい囚人服を着せたといいます。そして、その囚人服には囚人番号が付いていた。そういう現実を私たちは70年あまり前に経験しているにもかかわらず、「数量化の恐ろしさ」を忘れてしまっている。もっと言えば、数量化することで何が失われるのかということを、もしかしたら現代人は忘れつつあるのかもしれないと思います。
中島 イギリスがインドで植民地支配をしていたときも、最初にやったのは「数を数える」ことでした。つまり国勢調査なのですが、カーストなどのカテゴリーごとに、そこに何人の人が含まれるかを、徹底して数える。それがそのまま徴兵と徴税の単位になっていくわけです。要は、机の上で人数を数えて合理的統治をやるというのが、近代の統治技術だったんですね。
これは、言い換えればいのちを消していく作業です。人間を個性なき均質化した存在として数値化し、道具化していく。こういう政治のあり方を、コロナは非常に如実にあぶり出して見せた。毎日「何人が亡くなった」と告げる数字の羅列を見ながら、「いのちが消えていく」ということを、ずっしりと重く感じていました。
リーダーは、信頼される人物でなくてはならない
中島 本の中で取り上げた人物についても少しお話ししたいのですが、たとえば私たちが最初に注目したのが聖武天皇です。今の私たちと同じように疾病という災害に直面したリーダーが、どのように行動したのかについて議論をしました。
コロナが始まってから私が読んで感動した文章の一つが、この聖武天皇の出した「大仏建立の詔」でした。多分、中学校の社会化の授業か何かでも習ったと思うのですが、今読むと「なるほどな」と思わされる、見事な文章です。
当時は疾病だけでなく、地震や干ばつなどあらゆる災害が相次ぎ、人が次々に亡くなっていました。聖武天皇は、それはまず「自分のせいだ」と考えるんですね。つまり、「自分に徳がないから、このような災害が起こるのだ」というわけです。
彼が大仏建立を計画したことに対して、「大変なときにそんな個人の趣味みたいなことを、しかも人民に苦役(くえき)をさせてやろうとするなんて」と批判する人もいるのですが、まったくそういう意図ではないんですよね。詳しくは本を読んでいただければと思うのですが、彼はこの事業は人間だけではなく草・木・動物、あらゆる生きとし生けるものがことごとく栄えんことを望むものである、と述べている。そしてそこに、誰もが主体的に取り組みながら、みんなでつながっていく。そのプロセスこそが大仏建立であると言っているわけです。本当に深い次元から出てきているコトバだと感じました。
若松 聖武天皇のところでは、彼を支えた妻の光明皇后という存在の重要性についてもお話ししました。聖武天皇だけでなく、今回の本で取り上げたリーダーたちには必ず、同じような存在があった。必ずしも伴侶とは限らないけれど、いろんなかたちでそのリーダーを支えた人がいる。ですから私は、リーダーは人々を引っ張っていく力があるだけではなく、人から信頼される人でなくてはならないと思うのです。その人を深く信頼し、場合によっては二つの「命/いのち」を懸けてくれるような人が出てこないと、その人はリーダーになることはできないのではないでしょうか。
中島 そうですね。たとえば大平正芳には、盟友・伊東正義という心と心で通じ合ったパートナーがいました。彼がいなかったら、大平は政治家にはならなかったのではないかと思います。
若松 今回の本では取り上げませんでしたが、たとえば二宮尊徳などもそうですね。彼は農村改革の指導者として全国を回り、その方法で600の農村が再生したといわれていますが、それを尊徳一人でやったかといえばそんなことはありません。尊徳の人間性にうたれて「この人に命を捧げよう」という人たちが大勢現れ、尊徳の教えを受けて、全国で農村改革に尽力した。尊徳も聖武天皇と同じで、何か困難にぶち当たったときに、誰かのせいにするのではなく「自分の徳がないからだ」と考える人でした。21日間にわたる断食をしたともいわれています。
大仏建立の詔
「盧舎那仏建立の詔」ともいう。天平15(743)年10月15日に発せられた(続日本紀 巻第十五)。
伊東正義
1913-94。昭和~平成にかけての自民党の政治家。農林省などの官僚をへて、1963年衆議院議員に。79年大平内閣の官房長官を務める。80年大平の急死のあと首相臨時代理に。鈴木善幸内閣の外務大臣。
二宮尊徳
1787-1856。江戸時代後期の農政家、思想家。通称・金次郎。
タゴール
1861-1941。インドの詩人。カルカッタ出身で、1877年イギリスに留学。帰国後詩作をかさね、農村改革運動や民族主義を高揚した。東洋人として最初のノーベル文学賞を 1913年に受賞。ガンディーらの独立運動に大きな影響を与えたといわれる。
中村哲
1946-2019。医師。国際NGOペシャワール会現地代表。84年にパキスタンのペシャワールの病院に赴任。アフガン難民の診療にかかわり、さらにアフガニスタン国内へ活動を広げる。灌漑・飲料水用の井戸掘削から大規模な水利事業を展開。2019年、アフガニスタンで銃撃され死去。
マイケル・オークショット
1901-1990。イギリスの政治学者、政治思想史家。 51年~69年ロンドン大学(ロンドン経済政治学校)政治学教授。 1966年,英国アカデミー会員。著作に『政治における合理主義』 などがある。
吉野作造
1878-1933。政治学者、思想家。民本主義をとなえ、普通選挙の実施や政党内閣制などを主張した。大正デモクラシーの理論的指導者。
西部邁
1939-2018。評論家。東京大学経済学部在学中に東大自治会委員長、全学連中央執行委員に。60年安保闘争で指導的な役割を果たす。86~88年に東京大学教養学部教授。保守派の評論家、思想家として活躍。著書に『経済倫理学序説』、『生まじめな戯れ』などがある。
内村鑑三
1861-1930。無教会派キリスト教指導者。評論家。足尾銅山鉱毒事件の実態を訴え、第一高等中学の教師のとき、教育勅語への敬礼を拒否して免職となる。日露戦争への非戦論を唱えた。著書に『代表的日本人』『基督信徒のなぐさめ』などがある。
大本教
1892年、明治末期におこった神道系宗教団体。出口なおを開祖とし、養子・出口王仁三郎(おにさぶろう)によって組織された。1935年に弾圧され、36年に解散。