中島 私は、大正デモクラシーというものは、あまりにも狭く捉えられすぎていると思います。一般的に大正デモクラシーといえば、第一次大戦後の不況の中で民衆が政治意識に目覚め、普通選挙運動や労働運動が起こり……という説明になるし、それはそれで重要なんですが、それだけではない。白樺派の運動もまさに大正デモクラシーだと思うし、たとえばあの時代に大本教(おほもときょう)なんていう宗教が生まれて多くの支持を集めたというのも、大正デモクラシーだと思うんです。
大本教というのは「世直し」、世の中を立て直さなくてはならないと説いた宗教です。そして、それを担った人たちは、開祖の出口なおをはじめ、無学で文字も知らない、そして近代産業の拡大によって社会の隅に追いやられたような人たちだった。そういう人たちが世直しを唱えたというのは、まさにデモクラシーだったと思うんです。
若松 同感です。そして、私たちの時代においても、ここから政治のありようが変わることがあるとしたら、それはそうした「民衆」の力によってではないかと思います。
私たちは、大衆と民衆の違いというものを、もう一度考え直したほうがいい。大衆の力は全体主義につながる恐ろしいものだといえますが、民衆はそうではありません。民衆の力、民衆の英知を政治が受け取ってくれれば、そこから何かが動き出すのではないかと思うのです。
中島 私の師匠である故・西部邁さんもよく、「大衆と庶民とを区別せよ」とおっしゃっていました。そして、常に庶民の側に立つのが保守という立場である、と。「衆愚政治なんて言っているけど、庶民を馬鹿にしているのか」と言われることもあったようですが、「そんなことを言うやつよりもよほど自分は庶民を尊重している」「批判しているのは均質化する大衆であって、歴史の英知を引き継ぐ庶民こそ大切な存在だ」と言っていました。若松さんのおっしゃる「民衆の英知」とは、西部さんの言う「庶民の英知」だと思います。
若松 民衆というのは、ある意味無名な存在ですよね。そして、無名だからこそ宿る英知というものがある。しかし、現代に行われているのは、常に「名がある」人による政治です。「名がある」ことによってその人の言説が信頼されるべきものだと考えられる、それは非常に危うい。
「名がある」人の最たる者は独裁者です。名がある人、あるいは多数派の人が言っていることが真実だ、正しいというのであれば、それは全体主義になってしまう。無名の人が言っているにすぎなくても、何者かが言っていることは常に重みを持って受け止めていく、それが本当の意味での民主主義なのではないでしょうか。
行為も存在も「与格」である
中島 また、今回の若松さんとの対談を重ねながら、常に私の念頭にあったのは内村鑑三の著書『代表的日本人』でした。この本が出版されたのは、日清戦争の始まった1894年。内村もまた危機の時代において、彼が代表的な日本人だと考える人物について歴史を遡行し、その生き方から学ぼうとしたわけです。
登場する人物は西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮。一見バラバラのように見えて、内村の世界観の中では統一性があった。この人たちから今、学ばなければならないという内村の思いがにじみ出ている本だと思います。それに比するとまで言うつもりはないですが、それに連なる本ができたら、と思ってつくったのが今回の『いのちの政治学』でした。
若松 中島さんは対談の最初からそうおっしゃっていましたね。『代表的日本人』は、私にとってもとても大事な本です。そして今回、自分が本をつくってみて分かったのは、内村が書いた人たちというのは、みな「徳によって生かされている人たち」でした。5人がどういう人間だったかということ以上に、さまざまな場面や時代において、徳がどう人間を用いるのかということこそを、内村は伝えたかったのではないかと感じました。
中島 根本にある人間観そのものの問題ですね。これも『いのちの政治学』の中で詳しくお話ししましたが、ヒンディー語に「与格」という文法があります。「私は」ではなく「私に」で始める構文なんですけれども、「人間には、私の意志に還元できない行為がある。それを表現する際に与格を使うんだ」と習いました。
具体的には、「私はあなたを愛している」なら、直訳すると「私にあなたへの愛がやってきて、とどまっている」という。あるいは「あなたはヒンディー語を話せるのか」と聞くときには「あなたにヒンディー語がやってきて、とどまっているのか」という聞き方をするんです。
では、そんなふうに「愛」や「ヒンディー語」がどこからかやってくるとしたら、その源泉は何なんだろうと考えると、やっぱり神とか死者、歴史といったものに行き着かざるを得ない。そしてこういう感覚は、現代の私たちに非常に必要なものだと思います。私たちは何をするときにも、「私は〜する」という主格で物事を考えがちだけれど、実はほとんどの行為は与格ではないか、ということです。
若松 行為だけではなく、立場もそうですね。「私は政治家である」と言うけれど、本当はそうではなくて、「政(まつりごと)の責務」というものがその人に宿っているにすぎない。だから、その人の器が、もし、ひび割れていれば、その責務は他の器に行ってしまうのは当然です。そうした「存在のありよう」というところまで遡って考え直さないとならないのではないでしょうか。
中島 さて、最後に一つだけ、イベント参加者の方からいただいた質問にお答えをして終わりにしたいと思います。
「社会やリーダーに求めすぎてしまうより、我々一人ひとりの人間の世界が重要であると学んできた気がします。その始め方について、お二人の実践やヒントがあればご教示いただきたい」
若松さん、いかがでしょうか?
大仏建立の詔
「盧舎那仏建立の詔」ともいう。天平15(743)年10月15日に発せられた(続日本紀 巻第十五)。
伊東正義
1913-94。昭和~平成にかけての自民党の政治家。農林省などの官僚をへて、1963年衆議院議員に。79年大平内閣の官房長官を務める。80年大平の急死のあと首相臨時代理に。鈴木善幸内閣の外務大臣。
二宮尊徳
1787-1856。江戸時代後期の農政家、思想家。通称・金次郎。
タゴール
1861-1941。インドの詩人。カルカッタ出身で、1877年イギリスに留学。帰国後詩作をかさね、農村改革運動や民族主義を高揚した。東洋人として最初のノーベル文学賞を 1913年に受賞。ガンディーらの独立運動に大きな影響を与えたといわれる。
中村哲
1946-2019。医師。国際NGOペシャワール会現地代表。84年にパキスタンのペシャワールの病院に赴任。アフガン難民の診療にかかわり、さらにアフガニスタン国内へ活動を広げる。灌漑・飲料水用の井戸掘削から大規模な水利事業を展開。2019年、アフガニスタンで銃撃され死去。
マイケル・オークショット
1901-1990。イギリスの政治学者、政治思想史家。 51年~69年ロンドン大学(ロンドン経済政治学校)政治学教授。 1966年,英国アカデミー会員。著作に『政治における合理主義』 などがある。
吉野作造
1878-1933。政治学者、思想家。民本主義をとなえ、普通選挙の実施や政党内閣制などを主張した。大正デモクラシーの理論的指導者。
西部邁
1939-2018。評論家。東京大学経済学部在学中に東大自治会委員長、全学連中央執行委員に。60年安保闘争で指導的な役割を果たす。86~88年に東京大学教養学部教授。保守派の評論家、思想家として活躍。著書に『経済倫理学序説』、『生まじめな戯れ』などがある。
内村鑑三
1861-1930。無教会派キリスト教指導者。評論家。足尾銅山鉱毒事件の実態を訴え、第一高等中学の教師のとき、教育勅語への敬礼を拒否して免職となる。日露戦争への非戦論を唱えた。著書に『代表的日本人』『基督信徒のなぐさめ』などがある。
大本教
1892年、明治末期におこった神道系宗教団体。出口なおを開祖とし、養子・出口王仁三郎(おにさぶろう)によって組織された。1935年に弾圧され、36年に解散。