あ、小説って、作家の身体そのものなんだ、文章をそのように扱うのが許されるのが純文学なんだ、と感動したのはいつの頃だったか。作家だけでなく、読者の身体をも抑圧から解き放つ。これが、純文学の最も重要な機能だと僕は考えています。そのために僕は、頭で考えるというよりは、夢で見た光景や言葉などをそのまま小説に落としこんだりします。『ジャップ・ン〜』に登場した架空のメタルバンド「ダンチュラ・デオ」の名前だって、かつて眠っている時に見た夢の中に登場した言葉でした。目覚めてググってもヒットしないので、これは使えるぞと息巻いて実際そのようにしたのです。僕は現実世界と夢の世界を、小説によって繋いで、自らの意識体験の同一性を保とうとしているのかもしれません。
「身体を抑圧から解放する」! これが純文学だ。ですからこの芸術に、制約は似つかわしくありません。どんなインモラルなことを書いてもいいのです。どんな情報を入れるのか、省くのか、最大限自由であるべきなんです。人間が書いているのだから、人間以上のものは生まれてこないわけで、だとすればものすごい気持ち悪い作品が出来上がってしまっても全く問題ない。あらゆる意味で、出版できるかできないかギリギリなもののほうが、より純文学らしい。業界がどう思っているのかは知りませんよ? あくまでも僕個人の意見です。
いかがでしたでしょうか。純文学ってどんなものなのか、何となく把握していただけましたでしょうか。あるいは「鴻池の認識は間違っている」と思いましたか? 純文学というジャンルの成立過程は全く割愛し、現代の文芸誌で小説を書く僕の立場の説明に終始しました。なのでますます謎は深まるばかりかもしれませんが、兎(と)にも角(かく)にも純文学に期待する「自由」を求めて、僕は今日もシコシコ執筆を続けています。
6・他の作家たちの意見
僕以外の純文学作家たちは、どう思っているのだろう? 彼らは自らの立ち位置や、純文学について、どのように考えているのだろう? そんなことを思っていたときに、「集英社オンライン」というウェブメディアのコラムの企画編集の仕事が、会社に舞い込んできました。
そこで僕が提案したのが、小説家と小説家の対談企画です。僕自身が知り合いの作家にインタビューし、なぜ、どうして純文学作家となったのか、そして、これから何をしていくのか、その思いを訊ね、記事に起こそう。現役の作家、鴻池留衣が、作家同士の人脈を活用し、現代の“非採算部門”の担い手たちに、不躾(ぶしつけ)にも直接、いつも抱いている疑問を訊いてしまえ。と、こういうわけです。普段小説を読まない人に向けた「純文学」の説明を要請すると、彼らは何を話すのか。それぞれのスタイルを持っている作家たちから、きっとそれぞれ違う答えが返ってくると予想されます。それがまた面白いのではないか。純文学の定義が、ますます複雑かつ難解になっていくかもしれないし、逆に輪郭がはっきりしてくるのかもしれない。
で、松波太郎さんが、最初の対談相手の役をお引き受けくださいました。松波さんは文學界新人賞を二〇〇八年に受賞しデビューした先輩作家です。三年前、作家同士のトークイベントで同じ場所に出させていただいたことがきっかけで知り合ったのですが、松波さんの著作に僕の書いたコメントを載せていただいたり、何かとお世話になっています。
松波さんは、鍼灸師と小説家の二足の草鞋でご活躍されています。この言い方は世間向けなところがあり、実を言えば、彼にとって小説を書くことも他人の身体に鍼を打つことも同義なのだそうです。詳しくは、集英社オンラインの件(くだん)の記事(https://shueisha.online/culture/38546)をご参照していただくとして、とにかくよい記事が出来上がりました。
無論、純文学の定義も彼に訊ねました。松波さんらしい、僕では答えられないような、優れた回答が得られました。やはり作家の思想は千差万別です。