高瀬 はい、わかってます(笑)。
純文学の楽しみ方教えます
鴻池 純文学のひとつの定義というか、出版社が純文学でウリにしているのは〝作家性〟なんだと僕は思うんですよ。私小説=純文学という系譜からくる考えかもしれないけど、作家性が透けて見える作品がウケるんです。小説のテクストの向こう側に作者が見えているほうがいいんです。
高瀬 それは本のカバーに作者の顔写真が載っているという話とは別ですよね? 文章から浮かび上がる作家像のことですよね。
鴻池 そうです。文章から1人の作者というキャラクターが浮かび上がる。それは必ずしも実際の作者とは一致しないんです。テクストの向こう側に、ホログラム的に浮かび上がる〝虚像〟なんですよね。この〝虚像〟をあぶり出す楽しみ方が純文学にはあるんです。この読み方だと純文学は楽しいです。
実は、「これは私小説です」と明言しているものほどウソっぽいものはないんですよ。
「私小説」は、「私」の経験をありのまま書くという体裁で書かれた純文学作品ですね。作者の〝実像〟をウリにしているんですよ。でも、「私」をフィクション化しているんで、実はウソが多い。だから、僕は「私小説」も好きだけど、「物語」のフィクション性の強い純文学作品のほうが読んでいて楽しいんです。皮肉にも「私小説」よりも作者が強く出ているので。
さっきのウソの話ともつながるけど、小説家は「本当のこと」を書きたいんだけど隠しているんですね。一方で、小説家は自分しかリソースがないから、自分の経験から書くものを引っ張ってくるしかないわけです。自分の想像力なんて、自分の知識と経験から生まれるものだからね。結果的に、フィクション化する作業のなかに、小説家の「私」や「本音」が入ってしまう。だから、僕は純文学の作品を読みながら、いつも探偵のようにそれを探っているわけです。それで名探偵・鴻池が高瀬隼子作品のナゾに迫るとですね……。
高瀬 うわーいやだ!
鴻池 高瀬さんの作品に浮かび上がるホログラムはあるんですけど、なんかそれが人間じゃなくてAIみたいなんです。これはなにか重大なことを隠しているから、AIのような虚像が作られるんじゃないかと考えたんです。
高瀬 私は鴻池さんの小説の読み方と多分全然違う読み方をしてるから、いま、とても新鮮です。
鴻池 なんかその反応が……。
高瀬 ヤバい! 地雷踏んだ(笑)。
鴻池 この「私とは違うけど新鮮です!」みたいなディスりと褒めをね、セリフの中にうまく共存させることによって、高瀬隼子という人は世渡りしてきたんですね。
高瀬 そうかもな……。いや、私自身を分析してどうするんですか! 作品についてお願いしますよ。
高瀬隼子は〝おいしいごはん〟に興味がない?
鴻池 小説家はデビュー作に全てが内包されているみたいな話がありますよね。それに従うと、デビュー作の『犬のかたちをしているもの』が高瀬さんのホログラムを分析するいいサンプルになると思うんです。それで、この作品は身体のことが重要なテーマとして出てくるし、身体に関する描写が多いんですよね。でも、このホログラムから判断すると、身体に執着していないように読める。どこか醒めてるんですよ。他の小説では読んだことのない人工物っぽさが文章に滲(にじ)み出ているんです。高瀬作品に批判的な一部の評論家はそこがひっかかっているんですよ。
そこともつながるんだけど、僕は高瀬さんの作品を否定しないけど、ただ一点だけ許せない表現がありまして……。ちょっとオブラートに包むまで時間がかかる。
高瀬 いや、いいですよ、率直に言ってください。
鴻池 それは食べ物の描写です。たとえば、『犬のかたち』に出てくる餃子の表現とかね。高瀬さんは餃子を「焼く前の白い餃子の死体」って表現してるんです。
高瀬 ああ、白くてクタッとしてますからね。
鴻池 これってけっこう浮世離れした感覚だと思う。
高瀬 え、死体みたいじゃないですか?
鴻池 高瀬さんは食べ物の味とか関係なく、視覚の情報だけで描写しているんですよ。高瀬作品って食べ物がたくさん出てくるけど、全然、おいしそうじゃない。ジブリのアニメとか、西村賢太さんの小説に出てくる食べ物と対極の表現だよ。腹ペコな食いしん坊の表現じゃない。
高瀬 悲しい(笑)。そうかぁ。
鴻池 僕けっこう料理好きだから、ちょっと許せなくて。餃子を死体って言うのは、すごい食に対する冒とくにすら感じる(笑)。