高瀬 (笑)。初めてですよ、ここをそんなに読み込んでくださった方。
鴻池 『おいしいごはん』に出てくる「二谷」は食にこだわりがない男だけど高瀬さんもそうなんだよ。こういう細部の表現から作者が見えるのが純文学の楽しみ方だと僕は思ってるんです。
「仕方ないよね」で終わらせたくない
鴻池 高瀬さんの小説は三角関係が基本構造にあるんです。一組の男女カップルに敵対する女性が出てくるわけですよね。特に『犬のかたち』と、『おいしいごはん』は同じですね。それで、この三角関係を通して、これは『犬のかたち』が顕著だけど、男女の不均衡を描きたいのかなと思ったんです。『犬のかたち』の主人公の女性「薫」は、常に「割に合わない」という感じを抱いていますよね。身体や妊娠することについても悩んでいる。でも、僕はこの主人公は男の欲望を利用して自分の価値を作りたいんじゃないかと思った。「薫」は常に「私はこんなもんじゃない」という自尊心を持っている。この「薫」のプライドの高さは何なんだろう。
高瀬 いや「割に合わない」は自尊心から来ているのではないと私は思います。あくまで、この小説に関してですけどね。男女関係において、妊娠するのは身体の構造上、絶対女性ですよね。男性でも子どもが欲しくない人からしたら、女性とセックスするときに、「セックスしたいだけなのに、子どもができる可能性があるなんて割に合わねえな」って思うかもしれない。でも、それは〝思う〟じゃないですか。男性はあくまで気持ちだけど、女性は身体の現象として〝起こる〟から、「薫」のプライドの高さの話ではないと思う。
鴻池 『犬のかたち』の話をすると、主人公の「薫」は元々、セックスがしたくない。それで彼氏の「郁也」は大学の同級生の「ミナシロ」と金を払ってセックスしていて、彼女を妊娠させたと。そこから、話が展開していきますよね。「薫」はセックスが嫌なので、「郁也」に「つきあいはじめて4カ月ぐらいはセックスして、そのうちしなくなるよ」と予告しているんですよね。大体、こういう議論のときに、男の責任の話が多いんだけど、女の責任は一切ないんですかね。なんで、「薫」はセックスするんだろう? しなきゃいいじゃん。
高瀬 別に結婚とか子どもとかいらないけどセックスしたいという人たちがいたとして、なんで女性のほうだけ「しなきゃいいじゃん」になるかがわからない。妊娠という身体の危機管理は必要だけど、妊娠したくない女性は快楽としてのセックスもしなきゃいいじゃん、はおかしいと思う。これは、作品の話と少しズレてしまう意見ですけど……。
鴻池 いえいえ、作品とズレていいので話してください。
高瀬 私は、その不均衡な「割に合わない」感じのことを書いてるんですよね。だから、「薫」の「割に合わなさ」も自尊心とかプライドではないんです。前にネットで、生殖が目的ではなく純粋にセックスを楽しみたいときに、妊娠の可能性、身体性を持って危惧せざるを得ないから、男女で対等な楽しみ方ができないんじゃないかと書いてある記事を読んだんですけど、それはすごく共感しましたね。
鴻池 その対等な楽しみ方ができない「割に合わなさ」の怒りの矛先は、男性ですか? それともそういう身体の構造になっている宿命? いわば神様みたいなものに対する恨みなんですかね?
高瀬 女性のほうだけ妊娠する可能性がある身体の構造は、別にセックスする相手の男性の責任ではないですからね。男女の身体の構造が違うからどうしようもない。でも、どうしようもないから「仕方ないよね」の一言では、終わらせたくないんです。その収まらない感情から派生したものを書いているつもりです。
小説は〝正しさ〟を描けるのか?
鴻池 「この作者はこういう主張があるのだろう」とか、よく作品月評とかで評論家とかから言われますよね。読んで取り上げてくださるのは嬉しいけど、その読みは、大体当たってないし、僕は自分の作品が、ある狭い枠に嵌(は)められるみたいであまり好きじゃないんです。『おいしいごはん』は芥川賞も受賞して、その内容について社会的なトピックに合わせて語られることも多いと思うんですけど、それはどう思いました?
高瀬 NHKで今回の芥川賞の特集番組(ETV特集「芥川賞を読む。~〝正しさの時代〟の向こうへ~」)が放送されたんですけど、取材のときには、どういう括(くく)りになるかわからなかったんですね。
鴻池 高瀬さんも含めた芥川賞ノミネートの5作品を取り上げて、〝正しさ〟への違和感が共通して描かれているみたいな括られ方だったみたいですね。
高瀬 『おいしいごはん』については、小説のなかの「芦川」という女性について触れられることは多いかな。「芦川」は職場で、身体が弱いから守られた立場にある人物です。彼女の仕事を他の「二谷」や「押尾」ら同僚たちが担うことになってしまう、その葛藤を描きました。この作品だけでなく、我慢を強いられるほう、持ち堪えてしまう立場の人をいつも書いてはいるんです。ただ、〝正しさ〟に抗う、正義とは何だ? みたいな大きいテーマを意識しては書いていないかな。「芦川」を守ることは〝正しい〟し、「二谷」や「押尾」もそれぞれの〝正しさ〟で生きている。それはみんなそうで、会社でなくても、大学の小さなサークルとかのコミュニティでも起こり得る人間関係の葛藤を描きたかっただけなんです。
鴻池 いまポリティカルコレクトネスとか、小説も含めて表現においてはトピックになりますよね。僕は、小説は価値観の相克でしか動かない、ドラマにならないと考えているんですよ。この価値が正しいんだという物語は、小説ではなくてプロパガンダでしょう。それがどんなに正しい主張だとしても。
高瀬 そうですね。
鴻池 田舎の風習だって、都会の人からしたら悪いように見えるけど、その土地の文化、習俗では〝正しい〟んですよ。