高山 小説を書いて応募してデビューしたいのも、そんなに変わらないと思うんです。新人賞を受賞して自分の本が世に出る。興味ない人からしたら、「それが何?」って思うかもしれないけど、その人が輝く一瞬なんですよ。なんだろう、魂みたいなものが……。
鴻池 そうですね。小説の応募者は、魂が輝く瞬間に賭けているんですよ。
高山 小説を応募する人が人生のなかで、そういう瞬間を求めていると思うと、感動します。YouTubeやTikTokもそう。
AIが書いた小説と違いがない?
鴻池 高山さんってナゾなんですよ。なんか密かに量子論のひとつの解釈を小説にずっと書いている人なんじゃないかなと僕は思っている。
高山 なんですかそれ(笑)。
鴻池 作品を読んでも高山羽根子像が浮かばない。読者も、高山さんがどういう人かナゾなんじゃないかな。
高山 特に純文学は作品と書き手が分かち難いですよね。新聞で小さい記事が出ても、顔写真がつきますよね。なんか野菜の生産者みたいな。「私が作りました」じゃないけど(笑)。
鴻池 生産者の顔が見える野菜(笑)。顔が見えたほうが読者は安心するんですかね。僕ら農作物を作っていたんだ(笑)。
高山 どういう人が書いたのか、やっぱり作者の属性で作品も語られがちですよね。でも、それを回避して、覆面とかでデビューしても、その覆面であることに意味が付与されてしまうんですよ。ただSFとかほかのエンターテインメントの小説だとそこまで作者は気にならないんで、これは純文学の特徴かもしれないですね。
でも、アートも同じなんですよ。やっぱり画家の属性で作品を読み解こうとする傾向があると思います。アジアの女性が描いた絵なのか、ヨーロッパの白人男性なのか、黒人男性なのか、作品と作者を切り離すことができないんですよね。
鴻池 アートの世界もそうですか。そっか、純文学もアートとして振る舞っているところがあるのかな。作品が抽象的だったりして、読み解けないと作者の情報からヒントをもらうしかないから。
高山 そういうところは共通してるかもですね。バンクシーなんかも、覆面であることのほうに意味がありますよね。作品というより、作者であるバンクシーにみんな興味がある。
鴻池 ぶっちゃけ、バンクシーってうまいとは思えない。
高山 絵のうまさで評価されているわけではないでしょうね。でも、バンクシーは美術の技法をオーソドックスに学んできた人だと思いますよ。いわゆるアウトサイダーとかではないと思います。
鴻池 すごくわかりやすい作品ですよね。
高山 そうなんです。作品を看板とか匿名なものに近づけて、記号性を強調する。それが作者の匿名性とマッチしているんだと思います。
作者とは誰か? みたいな話で言うと、私も作品に「高山羽根子」と署名されるけど、なんか私が書いたものではないという気がするんですよ。それは、私の書いたものは、いろんな人の考え方が反映されたものだし、先人たちが書いた言葉に影響を受けたものだという感じがあるんですよ。いまAIが話題になっていて、AIが書いた小説もあるんだけど、それはいままで書かれた小説の文章を取り込んでできたものだから、著作権上の問題があるとか言われていますよね。でも、直接的に作品を取り込んでいなくても、自分も先人が書いた言葉でしか表現できていないから、その境目って何だろう? って考え込んじゃいましたね。
鴻池 オリジナリティって何だろうってね。
高山 そうなんですよ。
鴻池 そもそも、日本語使っている時点でオリジナルなのかとかね。
高山 〝自分の言葉〟って何だろうみたいな?
鴻池 そういう考えは、ご自身の小説に反映されたりするんですか?
高山 日頃、考えていることは作品にダダ漏らしにしちゃうほうかもですね。これはSFでも純文学でも同じで、小説は思考実験ができるんですよね。たとえば前に「高齢者は集団自決するべき」みたいな言葉が出てSNSとかで炎上した。その言葉は使われた場所とその前後のあり方、すべてが圧倒的によくなかった。
でも、小説というのは、発言した人がよくない何かをするに至るまでの過程を想像したり、さらにその先のことを考えることで、想像以上に深刻な事態を引き起こす可能性も描ける。口をふさいでその言葉をなしにするんじゃなくて、あらゆる人間が居て、それを読者に追体験させるのが創作者に必要なのかなとも思うんです。私は、せっかく、作品を発表する機会を与えてもらったので、なんかそういう作品を書きたいですね。
読者をナメるな
鴻池 高山さんの作品って、けっこう難解だと思うんです。これ悪口じゃないですよ。
高山 いや、いいですよ(笑)。わかりづらいとかストレートに言ってもらって構わないです。自分では難解とは思って書いてないですけど、いま、思い出すと、さっきも言った小説学校の先生が「読者をナメるな」というような意味のことを言われる方でもありまして。読者のことをナメるとすぐバレるんだと。とは言ってもなるべくわかりやすいほうに表現を変えるとか、私なりに工夫はしているんですよ。ただ、表現を過剰にするとか、言葉を増やすみたいなことはしたくないんです。それは「さむい」というのか……。失礼なことなんじゃないかと思うんですよ。
鴻池 高山さんのなかでは、作品にわからない部分があっても別にいいってことですかね?