高山 テロリズムを夢想している主人公がいて、実際に行動に起こさないで終わってしまう小説とかも許容される。ミステリーとか他ジャンルではあんまりそういうことはないと思うんです。文芸誌に掲載される小説はとにかく自由度が高いですよ。
鴻池 単純に比較できないかもしれないけど、純文学とSFどちらが自由度高いですか?
高山 SFというのは、小説に限らず映画やアニメも含めた文化への名付けみたいなところがあって。小説に関しても、思弁的SF(スペキュレイティブ・フィクション)、科学SF、冒険SFみたいに細分化される。SFのほうが〝お題感覚〟は強いと思います。たとえば、伝染病をテーマに、と言われたらそこは破れないわけです。
でも、文芸誌だとストーリー内に矛盾が起きても大丈夫で、何か切実なものが書かれていれば縛りみたいなものを取っ払える気がします。それを自由度が高いと言えるのか、逆に作品の自由度を広めにとらなきゃいけないととるのか……。
鴻池 〝広めにとらないとダメ〟という縛りになるかも。
高山 そうですね。
鴻池 確かに文芸誌に掲載される作品の自由度が高いとは思うんです。一方で、僕が一読者として抱く印象なんですけど、純文学とカテゴライズされる小説は、書き手の悶々とした劣等感やルサンチマンを作品に昇華させているものがけっこうあると思うんです。過去に書かれた作品も含めてです。
でも、高山さんの作品はそういうのがまったくない。他者に対しての期待も失望もない。それは、さっきおっしゃっていた自分に興味がないということにつながると思うんですよ。ただ、自分に興味がないってどういうことだろう? とも正直思うんです。やっぱり、表現って自分のことがどうしても出ると思うんですよ。
高山 いや、自分のことが出ないということではないんです。自分の周りのことを書いていけば、いつか自分の輪郭は出てくるんだろうという感覚があるんです。
鴻池 切り抜きのように自分の形が出てくる。
高山 そうです。これは私が絵を描くのを教えるときによく言う例えなんだけど、世の中にあらかじめアウトラインというものはない。アウトラインを最初に引くのではなく、Aを描いて結果的にBのほうのアウトラインが出てくる。小説も同じかなと。世界の側を書けば自分の形は出てくるし、逆に私小説みたいに自分のことを深く書いてゆけば世界の形が出てくる。本当にちょっとしたアプローチの違いだけだと思います。
鴻池 世界を描こうが、自分を描こうが、作業としては一緒かもしれないですね。
高山 目指している先は一緒かもしれないです。
鴻池 高山さんにとって、小説を書くという作業は、自分のアウトラインを引くことなんですかね?
高山 自分の輪郭を確認したいという感じはどこかにあります。世界のほうに興味を持って見てゆくと、最終的に自分の形が出てくるんじゃないかと信じて小説を書いているかもしれませんね。
鴻池 最後にとてもいい答えが聞けました。今日はありがとうございました。