経済活動の三つ目の三角形の話がまだですよ。イミダス編集部からこのご指摘を頂戴しました。おお、その通り! 経済活動は三角形だ。そして、その三辺をどう設定するかで、三つの経済活動の三角形が成り立ち得る。そう申し上げた上で、ここまでで二つの経済活動三角形をご一緒に検討済みです。一つ目の経済活動三角形は「成長・競争・分配」を三辺とするものでした。そして、二つ目の経済活動三角形の三辺は「地球・国家・地域」でした。
経済活動三角形は三つあるといいながら、三つ目を置き去りにしたままでは、確かにいけません。早速、編集部のご指摘にしたがって三つ目の経済活動三角形をみることといたしましょう。その三辺は「ヒト・モノ・カネ」です。
この三角形の場合、この「ヒト・モノ・カネ」の順番が肝心です。経済活動は人間の営みです。ですから、この「ヒト・モノ・カネ」の三辺の中では、常に「ヒト」が筆頭に来なくてはいけません。この経済活動三角形において、主役はいついかなる場合においても、ヒトなのです。ヒトがモノをつくり、それをお互いにやり取りする(この場合のモノの中には、各種のサービスや情報も含まれているとお考え下さい)。モノのやり取りを通じて人と人とが出会い、交わる。これが経済活動です。そして、このヒトとヒトとの出会いと交わりをより円滑でより幅広いものにするために、ヒトがカネを発明したのです。
ヒトがモノをやり取りする舞台上で、黒子として進行の円滑を図る。この役どころをカネが担当する。これが「ヒト・モノ・カネ」の経済活動三角形の本来の姿です。この点は、実に重要で注意を要します。ここに、この経済活動三角形の、他の二つの経済活動三角形との大きな違いがあります。
「成長・競争・分配」の三角形においても、「地球・国家・地域」の三角形においても、状況や局面によって三辺のうちいずれの辺が前面に出るべきか、あるいは出て来るかは変わって来ます。それに対して、「ヒト・モノ・カネ」の経済活動三角形においては、ヒトを差し置いてモノやカネが主役の座に躍り出ることは、決して許されません。経済活動が人間の営みである以上、「ヒト・モノ・カネ」の序列を崩すことはご法度です。
ところが、翻って現状をみるとどうでしょう。何やら、すっかりカネが舞台中央に出しゃばり出ているようにみえますね。ヒトもモノも、カネに振り回され、翻弄(ほんろう)されて右往左往している。そんな雰囲気が濃厚な世の中になっています。
カネがヒト化している。今の状況をこのように捉えることも出来そうです。「市場が催促している」とか「市場との対話が重要」などと言われます。こんな言い方をすれば、まるで、カネのやり取りの場である市場に人格があるようなイメージになってしまいます。カネがヒトとなって主役の座を奪取した。そんな様相を呈する今日この頃です。
そのおかげで、ヒトはモノ化の方向に追いやられている。そのようにもみえます。カネが出しゃばれば出しゃばるほど、職場でヒトがモノ扱いされ、コストカットの対象として邪険に扱われるようになる。そうした状況が、今日の経済活動の随所でみられます。
そしてモノはカネ化しつつある。それが現状だと思うところです。モノの価値が、それがどれだけのカネを獲得出来るかでしか計られない。それが今の世の中です。実は、これは経済観念の逆行です。モノは、それと引き換えに金銀財宝を手に入れるためにある。どれだけの金銀財宝と交換可能かで、モノの価値は決まる。この考え方は、「重商主義」の発想です。16~17世紀には、この発想が常識でした。
それではいけないと、世間を諭したのが、経済学の生みの親である「国富論」の著者、かのアダム・スミスでした。スミス先生は、「重商主義」を否定し、「労働価値説」を提唱しました。モノの価値は、その創造のために投じられた労働の量と質で決まる。これが「労働価値説」の考え方です。この考え方は、経済活動の主役がヒトであるという点に直結的に通じています。
大きく歪んでしまった「ヒト・モノ・カネ」の経済活動三角形を、その本来の姿に戻すことが出来るか。21世紀の大いなる課題です。