茨城県つくば市。筑波山の麓に広がる森や沢、田畑に囲まれた地に、障がいのある人(利用者)・そうでない人(スタッフ)が一緒に働き、生活し、学ぶ場がある。NPO法人「自然生(じねんじょ)クラブ」だ。その活動と暮らしぶりを知るために、1泊2日で現場を訪ねた。
生きることが学びの場
「どんなものであっても“学校”という枠組みの中にいる限りは、ある一時期の学びの場でしかない。そもそも生きていくこと自体が学びとなる場があればいいのではないか。そう思ったんです」
NPO法人「自然生クラブ」設立者で施設長の柳瀬敬さん(64)は、そう語る。筑波大学で教育哲学を学び、学生時代は脱学校論やオルタナティブスクールに夢中になった。卒業後、群馬県の山間部に当時設立されたばかりだった私立学校、白根開善学校で教員として働き始める。全寮制で教員も生徒とともに生活し、自由教育を実践していたその学校で、柳瀬さんは7年半鍛えられたという。
「(生徒は)暴走族、障がいのある子、学校に行っていない子など、既製品を作り出すような従来の学校ではダメな子たちばかりだったんです」
社会科の教員として赴任したはずだったが、音楽も教え、生徒たちとパン焼きや山仕事、農作業などもした。その経験を生かし、その後、学校という枠を離れて、人が暮らしを通して自ら学びを得ていく場を創ることにする。
「まずは私自身が、他人に雇われず自由に生きるために農業をやろうと、筑波の農家を手伝わせてもらいました。そこでは昔ながらの農業を教わったのですが、とてもおもしろくて。そんな時、その農家の方に空き家を紹介されたんです」
筑波の山の中にある農家の一軒家で、1990年、柳瀬さんは妻の幸子さんや白根開善学校でともに過ごした教員・生徒ら数人と、共同生活を始める。それが「自然生クラブ」の始まりだ。
「将来の計画というのはありませんでした。やりたいことをやっていたら、自然と現在のような形になったんです」
と、柳瀬さんは笑う。
まずは皆で昔ながらの農業、つまり持続可能な地域循環を生み出し、自然と共生する有機農業を営み始める。また、日々感じることを絵や舞踏、太鼓などの芸術を通して表現し、各自が好きなことを深めていきながら、自給自足に近い暮らしを築いていった。
「その中で、もともと農村共同体が内側に持っていた贈与経済(見返りを求めずに他者にモノやサービスを与える経済)を、表に出していったんです。(自然生クラブという)共同体の経済を地域の経済に広げたってことかな」
そして、2001年にNPO法人化。障害者自立支援法(2012年の改正で障害者総合支援法と改題。障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律)が施行された2006年に「森の家」、2014年に「宙(そら)の家」というグループホームをオープンし、十数名の知的障がいのある若者たちを受け入れる。
「障がい者のために何かやろう、という発想はなかったんです。ただ、一緒にやろうよ、という気持ちで始めました」
そう話す柳瀬さんたちのもとでは、現在、22歳から56歳までの男女計22人の利用者が、13人はグループホームに住み、9人は自宅から通いながら、スタッフと生活している。利用者は、障害年金で基本的な生活費をカバーしており、農作業などで収穫した作物の販売の売上からも、報酬を得る。一方、常勤・非常勤合わせて24人いるスタッフは、障害福祉サービス事業による報酬と、自然生クラブで作った米と野菜を「ベーシックインカムとして」(柳瀬さん)受け取る。
できる限り自由に
「自然生クラブ」の1日は、穏やかに、そこに暮らす人それぞれのペースで始まる。朝食は、7時半ごろからだが、皆が一斉に食堂に集まるわけではない。昼食時は、利用者もスタッフも、好きな場所で食事をとる。食堂で椅子に座って食べている人たちもいれば、隣にある居間のようなスペースで、あるいはテラスで鳥のさえずりを聴きながら、という人もいる。「ここではルールが少ないんです」と柳瀬さん。食事の前後も、ソファに座って絵を描いている女性がいるかと思えば、特製のスティックでペン回しの練習をする青年、新聞を広げる男性、うろうろしている人と、様々だ。