無茶々園では、こうしたみかんではない商品の販売を担うために、1993年、農事組合法人とは別に、株式会社地域法人「無茶々園」を設立した。その頃、その後およそ10年間、地域のみかん農家を2つに分断する問題が起きる。スプリンクラー施設を使った農薬散布だ。
1994年、みかん農家の間では、無茶々園に入る人が増え、一般的な栽培を続けるか、有機栽培に特化するか、どちらか1つを選択する流れが進んでいた。同時期に、農協は農作業を楽にするために、50ヘクタールのみかん畑にスプリンクラー施設を設置する。そして、その施設を使って水だけでなく、農薬の散布も行うことに。無茶々園の生産者たちはこれに反対し、水の出口に袋をかけて散布を回避したが、一般的な栽培を続ける賛成派の生産者たちとの対立は、裁判にまで発展した。10年後にようやく、農薬散布を行わない代わりに施設の償還金を無茶々園の生産者が負担することで、合意に至る。その背景には、裁判が続く間に生産者が次々と無茶々園に入り、地域の半数以上が農薬散布をやめたという事情があった。
その一方で、地域で長く続けられてきた農薬散布や化学肥料、除草剤などの使用は、すでに地域の自然環境に影響を与えていた。農薬散布の後に体調を崩した生産者もいた。また、気候変動による「異常気象」の影響も加わり、山ではもともといた虫がいなくなったり、大量の害虫やみかんの病気が発生したり、海では海藻があまり育たなくなったり、カタクチイワシが獲れなくなったり。山と海の両方で、環境と生態系に悪い変化が起きていることは明らかだった。
そこで、無茶々園は、住民と共に、山と海の環境を守る活動を展開していく。祇園丸の佐藤吉彦さんは、環境保護・教育活動に関わるようになって、「この地域では昔から魚付保安林(魚の繁殖、保護を目的として海岸や湖岸に設けられる森林)を整えて、海の環境を守ってきたことに改めて気づいた」と話す。これまでに子どもを含む地域の人たちと共に、廃油からの石鹸作りや合成洗剤による水質汚染を考える活動、海の緑化のためのワカメの種付作業、磯焼けを防ぐための対策などを行ってきた。
加えて、山と海の生産活動から生まれる余りものを利用した商品開発も進める。みかんの果皮から抽出した精油や真珠貝パウダーなどから作ったコスメのブランド「yaetoco」が、それだ。山と海の環境を守り、そこで生まれるものすべてを生かした持続可能な暮らしを築く試みが続く。
自立したコミュニティを築く(2)多様な人々の連帯
自立したコミュニティにとってもう1つ重要な要素は、「人」だろう。地域の外の多様でユニークな人たちともつながることで、無茶々園はその担い手を育てている。
近年、農業に関心を持つ都市の若者が増えつつある中、新たに農業を始めたいと考える人の働く場を生み出すために、2002年、有限会社「ファーマーズユニオン北条」を立ち上げた。現在の有限会社「てんぽ印」だ。明浜町を訪れ、美しい自然とオープンな人間関係の中に「居心地の良さ」を見出した若者たちが担い手となり、今、明浜町、松山市、愛南町の3カ所で農場を運営し、企業型の農産物生産・加工と農繁期の生産者派遣を行っている。
自身も17年前に新規就農者として無茶々園で働き始めた、石川県出身の代表取締役・村上尚樹さん(41)は、初心者として農業に挑戦する醍醐味をこう表現する。
「できなかったことができるようになっていくので、自分自身の成長を実感できるうえ、その仕事で誰かに喜んでもらえるのが嬉しい」
彼らの事業の強みは、農家としてのこだわりや固定観念がない分、自由に新しい挑戦ができることだ。野菜やみかんなどの果物のほか、祇園丸の天日干し場を借りて切り干し大根を作ることから始めた乾燥野菜・果物の生産・加工を行う。「企業経営型」にしたのは、新規就農者が1人で独立して農業を続けるのは、結構難しいからだ。協同で働き、給金を得る形の方が、持続性が高い。
「それぞれが自分に合った形で働き、地方生活が当たり前に選択できる社会にしたいんです」と、村上さん。メンバーが独立する際も、「のれん分け」にしてつながりを保ち、生産者協同組合のような形にしたいと考えている。
そんな村上さんを支えるのは、取締役の酒井朋恵さん(37)だ。東京出身で動物好きな酒井さんは、大学で牧畜を学び、語学留学したカナダにあるオーガニックファームで研修を受けていた際、無茶々園のことを知る。そして2012年に初めて明浜を訪れ、その翌年には就職していた。ゆるやかに人をつなぐのが上手い村上さんと、てきぱきと人を動かすのが得意な酒井さんは、絶妙のコンビだ。