――ただ、南アフリカのキャスター・セメンヤ選手など、生まれつきテストステロン値が高い女子選手たちが、その基準のために競技に参加できなくなるケースもみられます。「女性かどうか」を判別しようとするとき、テストステロン値は本当に有効なのでしょうか。
テストステロンは一般に「男性ホルモン(アンドロゲン)」と呼ばれますが、女性の体内にも存在するホルモンで、逆にテストステロン値が低い男性も一定数います。日常生活で「男性」「女性」を判断するためにわざわざホルモンの値を測ることはありませんし、実際、セメンヤ選手の他にも生まれつきテストステロン値が高い女子選手たちは何人もいて、彼女たちはそれまでなんの問題もなく女性として生きてきました。しかし、陸上の大会に出ようとしたら、「あなたはテストステロン値が高いので、女性のカテゴリーでは競技できません」と言われてしまったわけです。
最近では、テストステロン値が高い選手が良い記録を出すというデータがある一方で、オリンピックに出場するレベルの男性アスリートの中にもテストステロン値が男性平均より低い選手が16.5%見られるなど、テストステロン値とパフォーマンスの相関性そのものへの疑義も指摘されています。
そこで、「正真正銘の女性かどうか」ふるいにかける基準としてまた新たに出てきたのが「性別移行を行う時期」です。出生時に男性と判定された体を有する人が思春期(第二次性徴)を迎えて筋力が増す前に性別移行を行ったのであれば、女性競技に参加する資格がある、ということのようです。しかし、はたして「これが絶対的な男女の違いを示す基準」というものがあるのかどうか、明確にはわかっていません。それでも、男女の性別というカテゴリーを守り続けたい力が最後まで働くのがスポーツなのだと思います。
IOCは、女性競技への参加規定についてはそれぞれの競技団体に任せるとしていますが、さまざまな競技で基準の厳格化が広がっています。そうした動きは、陸上や水泳など筋力が競技成績に強く結びついているスポーツ、ゴルフのように英米では男性的とされているスポーツで顕著です。社会の性の価値観に合わせていくのか、それとも特殊な空間として従来の男女の区別を続けていくのか、そこが今、せめぎ合っている状況で、アメリカのバイデン政権下で進展したトランスジェンダー女性選手の参加がトランプ政権で一気に後退したことも、その流れの中で起こっていると言えるでしょう。
――トランプ政権に代表される政治的な保守化は、どこまでスポーツに影響を与えるのでしょうか。
トランプ大統領は、州法でトランスジェンダー選手が女子競技に参加できると定めているカリフォルニア州等に対し、「財政支援を取り消す」などと圧力をかけています。実際に連邦資金を凍結されたペンシルヴェニア大学は方針転換を余儀なくされ、同大のトランスジェンダー女子選手の大会記録を剥奪するなど、アメリカの学生スポーツの性的多様性はバックラッシュ(揺り戻し)にさらされています。
アメリカ国内のみならず、国際スポーツ大会もこの動きから無縁ではいられません。2028年に開催されるロスアンゼルス五輪では、開催国のアメリカ政府が強い影響力を行使することが予想され、IOCが掲げる「性自認、性別表現、および/または性の多様性にかかわらず、誰もが安全に、偏見なくスポーツに参加できるべきである」という理念が後退する可能性は否めません。
もしかしたら、こうした後退は長く続くかもしれませんが、既に社会でこれだけ多様な性の価値観が浸透していることを無視して、スポーツだけが性別二元制のままであり続けられるとも思えません。オリンピックは過度な商業化などで批判も多いですが、その掲げる理念にはやはり大きなインパクトがあります。性の多様性を尊重するIOCの取り組みは、従来の「男とは、女とはこうあるべき」という主張の問題点を気づかせるという意味でも、前向きに捉えられるべきでしょう。
女性参加の他にも、スポーツが時代の価値観に合わせて変化した例として、人種差別の是正が挙げられます。今では考えられないことですが、昔、黒人は人種差別によりスポーツの能力が低いとみなされており、白人と一緒にプレーすることも禁じられていました。それが変わったのは、社会の価値観が黒人に対する差別を許さなくなったからです。スポーツの側はしぶしぶではありますが、そうした時代の変化に合わせて、黒人も白人と一緒に競技できるようにしたところ、「黒人の身体能力は低い」ことは単なる思い込みに過ぎなかったと明らかになりました。現在はもう、人種によってスポーツ参加を制限されるなどありえないことです。性をめぐる問題についても、短期的には揺り戻しが起こったとしても、長期的にはスポーツ界は多様性の方向に向かうのではないかと考えています。
より開かれたスポーツの可能性を考える
――近代に生まれ、発展してきたスポーツが性の多様性を受け入れるということは、男女の性別二元制という枠組みを捉え直すことだと思います。そのために、今後、どのようなことができるでしょうか。
特定の条件の人、つまり「体力」的に優れた男性しか楽しめなかったり有利になったりするのではなく、もっとスポーツが「開かれた」ものになっていくことが必要です。今、IOCが積極的に導入しようとしているeスポーツをはじめ、マインドスポーツと呼ばれる、体を使わずに競い合うスポーツは、そのためのひとつの可能性になると思います。
eスポーツを「スポーツ」とみなすことに違和感を持つ人も多いかもしれませんが、たとえばイギリスでマインドスポーツは1ジャンルを築いており、書店に行くと、スポーツのコーナーにクロスワードパズルの本が並んでいたりします。実は、アスレティックな近代スポーツが発達していく前のイギリスでは、スポーツと言えば体を使わなくても競い合ったり気晴らしができたりするトランプゲームやチェス、あるいは「キング・オブ・スポーツ」と呼ばれた狩猟や競馬、運の要素が強い魚釣り、さらには散歩すらスポーツ的とみなされるなど、スポーツは非常に広く捉えられていました。そう考えれば、eスポーツは、近代以降、男性優位なあり方へ、狭義なほうへと閉じていったスポーツが再び開かれていく、ひとつの表れとなれるかもしれません。
アジア競技大会では、eスポーツの他、囲碁やチェスやブリッジ(トランプを使うカードゲーム)、ビリヤードといったものも採用されています。競い合いこそがスポーツの本質だという近代以前の概念からすれば、既にそうした競技はスポーツの枠内に入ってきていますし、そこをさらに広げていくということはできるのではないかと思います。
2022年に中国の杭州で開催されたアジア競技大会、ブリッジ女子団体予選(インド対タイ)
――スポーツとは何か、改めて考えさせられます。知力を競い合ったり、体を動かすことを楽しんだりするということも含めて、スポーツにはいろいろなあり方が存在するわけですね。
性のあり方についても、欧米以外の多様な文化圏に目をむけることが重要だと思います。スポーツの発祥はイギリスですが、「ジェンダー」も英語圏で使われる独特な概念で、もともとは名詞に男女の区別がある言語を説明する言語学の用語として作られたものですから、英語圏以外の人にとって、身体的な性(セックス)と社会的概念としての性(ジェンダー)を分けるという考え方は、なかなか理解するのが難しいと思います。
逆に言えば、アングロサクソン文化圏以外には、また違うジェンダー観があるわけですね。たとえば、フィギュアスケートの男子選手は、英米では「男性らしくない」「同性愛者ではないか」というイメージにさらされがちなのですが、日本を含め、アジアでそうした偏見はあまりなく、男子選手が活躍しやすい環境があります。スポーツもジェンダーも、英米の文化圏とは違う価値観で捉え直すことで、くびきとなっている部分をポジティブに変えていく道が見えてくるのではないかと思います。