民意を無視して進められた「安全保障関連法案」に反対するために、連日多くの人が国会前に押し寄せていたのは、15年8月末から9月にかけてのことだった。
現場では連日集まった人に向けて、SEALDsのメンバーたちがこんな声を張り上げていた。
「野党は共闘!」
彼らは立憲主義と民主主義を守るために、政策は違えども野党同士がともに手を取り合って、与党に立ち向かうことを訴えていたのだ。
そこから約1年。16年7月10日に行われた参議院議員選挙では、「野党は共闘」から生まれた統一候補が1人区で与党候補と戦った。結果は11の選挙区で当選したものの、21の選挙区では落選した。
この選挙では憲法改正に積極的な自民、公明、おおさか維新の会、日本のこころを大切にする党などの議席数が定数(参院は242)の3分の2を超えてしまうと、憲法改正に向けての勢いが増す危惧(きぐ)があった。そこで選挙期間中、「3分の2を取らせない」というプラカードを掲げ、有権者に訴え続ける市民があちこちに現れた。しかしこの「3分の2を阻止する」という願いも、残念ながらかなわなかった。
「正直、予想の範囲内ではありますが、敵は手ごわいなという感じですよね。『リベラル』の皆さんは、あの1年前の熱気を忘れるのが早すぎるんじゃないかな(苦笑)。あの時と同じ気持ちで人々が動いていたら、また違う結果になったかもしれませんよね。……本音を言えば、与党議席数の3分の2超えは食い止めたかったけれど、野党共闘はそれでも1人区で善戦したと思います。良い変化ってそう簡単には起きないものだと肝に銘じて、あまり落ち込まないようにしています。だって自分の価値観が少数派とは思っていないし、一人ひとり話していけば、理解を得られることも多々ありますし」
そう語るのは、弁護士の太田啓子さんだ。太田さんは自身が所属する『明日の自由を守る若手弁護士の会』(あすわか)の一員として、13年4月から『憲法カフェ』という勉強会を続けている。「政治に関心をもってこなかった」「憲法なんて学生以来学ぶ機会がなかった」人たちに向けて、憲法改正議論の前提となる、基本的な法的知識を解説している。参加した一人ひとりが憲法についての議論ができるようになることが目標だ。そう聞くと、何がなんでも今の憲法を守ることを訴えているように思えてしまう。しかし太田さんは「『憲法改正に賛成か反対か』という問いには答えようがないし、憲法を変えてはいけないと言ったことは一度もありません」と語った。
「すごくシンプルな話で、良い憲法改正なら賛成だし、悪い改正なら反対するだけです。だからそういう質問には、『議論の作法自体がおかしいよ』と答えています」
太田さんが反対するもの。それは自民党が提出している日本国憲法改正草案だ。「変えたい」「変えたくない」以前に、この進め方には大きな問題点があるという。
「今の憲法のなかで喫緊(きっきん)に変える必要があるものは、あまりないと思うんです。でも長期的に検討した上でなら、改正が必要なものは出てくるかもしれない。それはその時に議論を重ねたうえで検討していけばいいことなのに、自民党は性急に改正論議を進めてしまっている上に内容に問題があるので、『この改正案はおかしい』と言っているんです」
「憲法カフェ」を始めた理由は、憲法への関心を持ってほしいのと同時に、東日本大震災の影響が大きい。震災が起きた当時、母親として2歳の子どもの被曝(ひばく)を恐れていた。しかし11年末に尿検査をしたところ、セシウムが検出されてしまったことでショックを受けたと明かした。
「このままでは子どもを守れないのではと不安になったし、私が住んでいる街は福島第一原子力発電所から300キロ近く離れているのに、それでも影響はゼロではなかった。だから周りの子どもを持つ親たちも皆心配しているだろうから、子どもの検査結果を伝えなきゃと思ったのに、ことごとくスルーされてしまって。……それもすごくショックでした。『意図された無視』というか、認めたくない事実は見ないことにしようとしているのかなとすら思ってしまって。でも地元に同じように反被曝の意識を持つ友人ができていって、同世代の女性たちとの輪が広がりました。彼女たちはノンポリだったのに請願などを熱心にしていて、そのゼロから作り上げていく姿勢に強い感銘を受けました。その友人との付き合いを通して小児科医で地元選出衆議院議員の阿部知子さんと繋がり、12年衆院選で一緒に阿部さんの選挙応援をした友達に『次は憲法の勉強会をやらない?』と話したことから生まれたのが、憲法カフェなんです」
「『憲法カフェ』では、憲法って生活の全てにかかわるものですから、一見政治や憲法に関係なさそうでも色々な話が出たりもするんです。小規模だと、質問や感想を聞く時間はかなり盛り上がります。真剣に皆で2時間なり話し合うと、参加者の目の色が変わっていくのがわかるんです。静かに涙を流しながら聞いているお母さんもいて、その人が子どもの幼稚園にかけあって、幼稚園で次の憲法カフェが開催されることもありました。こうして『今日は参加者、次は企画者』という具合に、参加者が主体的に動いていく連鎖反応をあちこちで見ているので、まだこの社会には希望があると思っています」
九条の前にまず十三条を知ってほしい
まず知ってほしいのはよく言われる第九条、ではなく第十三条だと太田さんは言う。どんな内容なのか。すぐには思いつかなかった十三条には、「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれていた。これが12年4月27日に決定された自民党改正草案になると、「全て国民は、『人』として尊重される」に変わっている。「個」というたった一文字の違いに見えるが、のちに大きな違いを生み出すものになると太田さんは危惧する。「今の憲法では十三条は『一番高い価値を持つのは国家ではなく個人である』と解釈できます。まさに『主権在民』ですが、自民党の改正草案はあえて個人の『個』の字を削って、『人として尊重する』に変えています。これについては自民党の磯崎陽輔という議員が自身のホームページで以下のように言っています」
「第13条は、従来幸福追求権の規定と言われており、そのことに変更はありませんが、『個人として尊重される』という部分については、個人主義を助長してきた嫌いがあるので、今回『人として尊重される』と改めました。従来の『個人として尊重される』がやや意味不明な文言であり、『人の人格を尊重する』という意味で『人として尊重される』で十分と考えたところです」(「いそざき陽輔のホームページ」より)
「彼は社会に噴出する問題は、個人主義に原因があると考えているようです。しかし人間だったら何億人といるけれども、太田啓子はこの世に一人しかいない。その人そのものを大切にする価値観がないと、容易に替えが効くと錯覚してしまう。その錯覚が行き過ぎると、『経済的利益を生み出さない社会の役に立たない人間は、存在する価値がない』という発想に繋がるかもしれない。かけがえのない個人が自由に幸せに生きていくために考え出されたのが憲法という仕組みです。なのに個を尊重しないなんて。個人より組織、国家を重視しようということでしょうか。そんな人権感覚で生み出された自民党憲法改正草案って、一体誰のためのものなのでしょう? そもそも憲法の存在意義をわかっていない発想だと思います」
個が尊重されなくなると、憲法改正草案の九条二項に新しく加えられた「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」が暴走した結果、人々は意に反した「活用」をされてしまう可能性がある。だからこそ九条よりもまず、十三条を知って守る大切さを訴えているのだという。
「影山あさ子さんというプロデューサーが製作された『one shot one kill』という、アメリカの海兵隊ブートキャンプを取材したドキュメンタリーで出てくるエピソードですが、ここで新兵たちは、自分のことを『I』とか『me』と呼ぶのは禁止されていて、『This Recruit』と言わなければならないそうです。『私』という言葉自体を封じられ、何か疑問を発することは認められない。個性の全てと自分の頭で考えることを放棄させ、そうやって、幼い顔の若者を海兵隊員に仕立てていくのですね。これを知ったときつくづく、こういう組織、軍隊ほど、個人を尊重しない組織はないと痛感しました。個を大事にしていたら、軍隊をもって戦争なんてできるはずがないのですね。個人の尊重というのは平和主義そのものなのだと思います。