関東大震災の朝鮮人虐殺を、「帰ってきたウルトラマン」(1971年)の脚本に込めた上原正三さん。2017年6月には、戦中・戦後の沖縄に生きた経験を基にした自伝的小説『キジムナーkids』(現代書館)を刊行した。80歳を過ぎてもなお、若い世代に戦争と沖縄の歴史を語り継いでいこうとする原動力は何か。上原さんに話を聞いた。
小池百合子東京都知事は、都立横網(よこあみ)町公園で今年(2017年)9月1日に開催された関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、都知事名の追悼文を送付しなかった。
1923年9月1日に発生した関東大震災で、東京府内だけでもおよそ7万人もの人が亡くなっている。その際「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などのデマが飛び交い、これを真に受けて結成された自警団などが、朝鮮人や中国人を虐殺した。内閣府が2008年にまとめた『1923関東大震災報告書』(内閣府防災情報のページ)にも「社会主義者と朝鮮人の放火多し」「朝鮮人、市内の井戸に毒薬を投入」などの流言があったこと、朝鮮人や中国人、そして琉球人や日本人への殺傷事件が起きたことが記されている。その模様は「虐殺という表現が妥当する例」が多く、犠牲者の正確な数はつかめないものの、震災による死者数の1~数パーセントに当たる人が殺されたとしている。
東京で地震が起こり、流言により朝鮮人虐殺があったことは紛れもない事実だからこそ、石原慎太郎を始め猪瀬直樹、舛添要一と歴代知事は追悼文を送付してきた。小池都知事も昨年は送っている。にもかかわらず、東京大空襲の日に行われる3月の「都内戦災並びに関東大震災遭難者春季慰霊大法要」で犠牲者全てに追悼の意を表したからと、今年は送付をやめた。
脚本家の上原正三さんに意見を求めると、「やっぱり、小池都知事は追悼文を出すべきだったのではないか」と語った。
「出さなかった理由は僕には分からないけれど、朝鮮人虐殺は歴史的な事実としてあるわけだから、そこを踏まえる必要はあると思うんです。そして数の問題ではなく、一人でも誰かによって殺されたら、それは虐殺だと思うんですよね」
いざという時に狙われる、マイノリティの宿命を描いた
1966年に「ウルトラQ」のシナリオライターとしてデビューした上原さんは、その後特撮番組の脚本を数多く手掛けてきた。なかでも71年に放送された「帰ってきたウルトラマン」の33話「怪獣使いと少年」は、今もなお見た者の記憶に鮮明だ。
内容をざっと紹介すると、北海道は江差出身の少年・良はまだ子どもなのに、一人で川沿いの廃屋に住んでいる。母親は亡くなり、父親は失踪して天涯孤独の良を、街の人は「宇宙人」と思い込んで関わろうとしない。時に年上の少年たちから凄絶ないじめを受ける良は、実は金山という中年男性を廃屋にかくまっている。金山こそがメイツ星人なのだが、事情を知らない大人たちは良を危険視し、ある日集団で襲いに来る……という話だ。
首から下を土に埋められ汚水をかけられたり、雨の中食料を買いに行っても追い返されたりと(たった一人だけ、彼にパンを売る女性がいるが)、襲われる前も良は陰湿な仕打ちを受けている。それはひとえに、「あいつは宇宙人」だから。得体が知れないし、いつ攻撃してくるか分からないからやられる前に排除してしまおうとする“良き市民たち”の姿が、醜いまでに描かれている。この話のモチーフになっているのは、関東大震災時の朝鮮人虐殺だ。
「もう何度も話していることだけど、僕は琉球人だから関東大震災のようなことが起きたら、自分もやられるって思いがあったんです。それがマイノリティーの宿命というかね。だから『怪獣使いと少年』を書いたんだけど、良はあえてアイヌの血を引く設定にしました。なぜなら、琉球人も朝鮮人も実際に震災の時のデマで殺されているから。ウルトラマンシリーズは物語だから、震災時に殺されていないマイノリティーを選んだんです。でも過剰なまでに監督が映像を演出してくれて、脚本には書いてない『日本人は美しい花を作る手を持ちながら、いったんその手に刃を握ると、どんな残忍極まりない行為をすることか……』というセリフまで入れてきて。おかげでとても話題になったから、幸せな作品だと思っていますけどね」
自分は琉球人だと、ずっと思ってきた
自身を琉球人と言う上原さんは、1937年に沖縄県那覇市で生まれた。5人兄弟の3番目で、父親は警察官。戦時中は父を残して家族は台湾を経て熊本に疎開し、終戦後の1946年に帰島した。
当初は台湾から沖縄本島に戻る予定だったものの、台風の直撃で西表島に足止めされているうちに、那覇が空襲で壊滅されてしまった。船はアメリカの潜水艦と爆撃機を避けながらやむなく九州に向かったが、食料が尽きてケチャップを主食にせざるを得なくなった。それがトラウマになり今でも上原さんは、ケチャップが食べられない。
たどり着いた熊本では、寺のお堂で同じく疎開してきた三家族と、身を寄せ合って暮らしていた。当時は大本営発表を信じきり、「お父さんは憎きアメリカと戦って戦果を挙げている」とばかり思っていたそうだ。しかし沖縄に残った実際の父は避難民を連れて、命からがら安全な場所を探し回っていた。腐った食べ物を食べ死体が浮かぶ池の水をすすり、必死に生きていたのだ。戦後再会した時には父は赤痢でげっそりと痩せ、すっかり白髪頭になっていたと語る。
「大本営発表は、すごい効力がありましたからね。みんなラジオの言うとおりに動き、一喜一憂するわけだ。でも今思うと、一憂はないんだよね。全部勝利の話だから一喜だけ。だから最後まで日本は勝っていると思ってたよ。それが突如1日で、玉砕と敗戦に変わったわけだから。もう何とも言えないよね(苦笑)」
上原さんは沖縄戦とアメリカの占領下で過ごした日々を描いた『キジムナーkids』という小説を、2017年6月に出版した。構想20年、80歳を迎える年に生み出したこの作品は、全編にわたりウチナーグチ(沖縄の言葉)が使われている。その理由を上原さんは、「だって僕は琉球人だから」と語った。
「高校を卒業して大学に入るために東京に来た時、パスポートを見せて上陸したんです。その時に『あ! パスポートがなきゃ、僕はここ(本土)に入れないんだ。ということは僕は日本人じゃない、琉球人だ』と悟って。