2018年の「新語・流行語大賞」こそ逃したものの、#MeToo(私も)ムーブメントは今年、世界中で大きなうねりとなった。
セクハラや性暴力被害を「#Me Too」と言えるようになったことは、行為の非道さを可視化するだけではなく、同じ辛さを抱える女性たちを、孤独から解放するきっかけにもなった。
その空気も後押ししたのか、18年のノーベル平和賞は性暴力サバイバーでヤジディ教徒のナディア・ムラドさんと、コンゴ民主共和国(以下コンゴ)で性暴力被害者の治療にあたってきた、婦人科医師のデニ・ムクウェゲさんが受賞した。
ムクウェゲ医師が日本で広く知られるきっかけになったのは、16年に立教大学特定課題研究員の米川正子さんがムクウェゲ医師のドキュメンタリー映画の『女を修理する男』を日本で上映するために、任意団体「コンゴの性暴力と紛争を考える会」を立ち上げ、日本語字幕を付けたからである。同年6月、立教大学で日本初公開し、その後、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が主催する『難民映画祭』でも公開された。同年10月、「コンゴの性暴力と紛争を考える会」がムクウェゲ医師の初来日を実現した。米川さんに、ムクウェゲ医師の活動を伝える意義とコンゴという国についてうかがった。
女性と少女にとって世界最悪の場所・コンゴ
コンゴと言えば最近、「サプール」が大いに話題になった。サプールとはカラフルなスーツを身にまとって街に繰り出す男たちのことだが、彼らが闊歩しているのは首都のキンシャサや、隣のコンゴ共和国の都市部だ。一方、ムクウェゲ医師はコンゴ東部を活動の拠点にしている。
「コンゴでは、紛争や性暴力殺戮は96年から続いていますが、それは全土ではなくてルワンダと接しているコンゴ東部に限った話です。もちろん他の地域でも性暴力や略奪は起きていますが、コンゴ人の中でも『東部には出張でも行きたくない』と言う人がいます」
コンゴの国土の広さは日本の約6.2倍で、アフリカ大陸の中でアルジェリアに次ぐ2位となっている。それだけ広い国だから、地域によって情勢が異なるのは理解できる。しかしコンゴ東部では96年以降累計で約600万人もの死者を出し、「女性と少女にとって世界最悪の場所」と言われるほど性暴力が蔓延している。何が背景にあるのだろうか?
「コンゴには鉱物資源が豊富にあるということに尽きます。なかでもコンゴ東部で採掘されるコルタンというレアメタルは、パソコンやスマホ、ゲーム機やカメラなどに欠かせない素材です。1996年以降は、こうした天然資源の不法採掘が続いています。またコンゴ東部は土壌が肥沃で、農業や牧畜に適しています。たとえば北キブ州は『コンゴのパンかご』と呼ばれるほど作物がおいしく、1年に4毛作までできる地域もあります。この天然資源や土地を目当てにコンゴ国内だけでなく、ルワンダやウガンダなど近隣諸国の政府軍と武装勢力がやってきて、殺戮や性暴力を繰り返しているのです」
コンゴにおいて政府軍と武装勢力が性暴力を行うのは、決して性的な欲望を満たすためだけではない。その証拠にレイプで終わらず、性器に木の枝や棒、びんといった異物を押し込んだり、膣を銃で撃ち抜くこともある。女性であれば赤ちゃんから老人まで見境なく襲い、時には男性が被害に遭うこともある。それはひとえに、人間を資源としか見ていないからだ。誰が支配者なのかを徹底的に見せつけるために残虐を尽くし、性器を傷つけて子供を産めなくすれば、「資源」である人もいつしか絶えていく。そうすることでコンゴ東部住民から抵抗する気力を奪い、土地ごと自分たちのものにするのが目的なのだ。
現在63歳のムクウェゲ医師はコンゴ東部のブカヴで生まれている。彼がブカヴに性暴力被害者を治療するパンジ病院を設立したのは99年だが、米川さんによれば94年に隣国ルワンダで虐殺が起きた際、ムクウェゲ医師はすでに難民への医療支援にあたっていた。
「ムクウェゲさんというと性暴力被害者を助けるイメージがありますが、90年代にコンゴ東部で起きた、「虐殺」や殺戮など多くの重大な人権侵害を直接的に、また間接的に見ていらっしゃいます。私が彼と出会ったのは2016年に来日したときが初めてですが、著名な方だったので私がコンゴにいた07年には、名前を耳にしていました。でも私は医療分野に関わっていなかったので、当時は接点がありませんでした」
ルワンダでの虐殺が、性暴力の蔓延を生んだ
米川さん自身は大学で学んだあと、国連ボランティアを経てUNHCRの職員となった。11年間在籍したが、07年から1年半にわたり、コンゴ東部のゴマにあるUNHCRの所長を務めている。
米川さんはルワンダに住んでいた1995年からコンゴに関心を持ち始めた。98年5月にコンゴ東部のウヴィラという市に出向いた際、そこで現地人の同僚と知り合った。彼からコンゴの戦争について学ぶなど交流を深めていったものの、2カ月後に第二次コンゴ戦争が始まり、米川さんは国外脱出をせざるを得なくなって同僚とは連絡が途絶えてしまった。4年後にキンシャサで電話で「再会」を喜びを分かち合ったものの、3日後に彼は何者かに殺されてしまった。コンゴでは米川さんのすぐ身近にも、殺人による死が存在していたのだ。
「コンゴとルワンダでは、90年代に3回も紛争が起きています。まずは94年のルワンダでの虐殺、次が96年から97年の第一次コンゴ戦争、そして98年から2003年までの第二次コンゴ戦争です」
1994年4月、ルワンダで当時のハビャリマナ大統領が乗っていた飛行機が撃墜され、それを機に多数派民族フツの過激派が少数派民族ツチと穏健派フツ族を虐殺し始めたと言われる。その数は100日間で50万~100万人とも言われている。軽やかなメロディにのせてツチを「お前たちゴキブリはルワンダ人ではない」と罵る『千の丘自由ラジオ』によるヘイトスピーチも、虐殺の扇動に一役買ったと言われている。