「だけど、私は冒険野郎じゃない」とも言う。危険が好きなわけではないということだ。安全には万全を期してきた。あらかじめリスクを排除できないときは取材を断念する。戦闘地域に近づくときは、警護をつけて軍の通訳と共に行動し、自身も防弾ベストを着けて動き方に注意する。それは自分のためだけではなく、協力してくれる現地の人を危険にさらさないためでもある。彼女は十数年かけてイラクの人々と関係を築いてきた。それこそが、イラクの人々の懐に入るような取材を可能にしてきた。
それでもやはり、イラクでは何度も恐い思いをしたそうだ。目の前でアメリカ人の記者が拉致されたり、乗っていた車の下で仕掛け爆弾が爆発したり。数十人が殺された自爆テロの現場に遭遇したときは、血の海となった路上で、恐怖で叫び出しそうになるのを必死で抑えたという。
そうした恐怖が後に尾を引くことはないのだろうかと聞いてみると、「とくにないですね」ときっぱり言い切った後にこう付け加えた。「強いて言えば、草むらが恐い」。日本に帰ってからも、車道を渡るとき植え込みに足をつけないようにしてしまうという。無意識に地雷を警戒しているのかもしれないと言う。「あともうひとつ、花火が恐い。大阪の天神祭で花火を打ち上げるんやけど、あれは無理。私、もう絶対に見に行けない」。
イラク取材の意義は分かった。だがそんな恐ろしい経験を何度してもなお、再び現地に向かうことができるのはなぜなのか。「もう行きたくない」と思ったことはないのか。
「うーん、ないですね。もちろん私だって恐い。私、非常に恐がりなんですよ。でもね、イラクにはたくさんの友達がいる。これまで私を助けてくれた仲間、友達がいるんです。もう日本人の友達より多いんちゃうかな。伝えるべきことがあるのに、彼らが大変な状況の中にいるのに、“じゃあバイバイ”ってできないですよね」
玉本さんにとって、イラクは「友達がいる国」なのである。
デザイン事務所からジャーナリストへの転進
玉本さんは、最初からジャーナリストを目指していたわけではなかった。バブル後期世代の彼女は、大学を出たあと、デザイン事務所で働いていた。「本当に普通の人だった。あっ、今も普通やけど(笑)」。その彼女がジャーナリズムの世界に飛び込むことになったきっかけは、一人のクルド人との出会いだった。1994年のある日、玉本さんはテレビのニュース番組を眺めていた。画面の中では、ドイツに住むクルド人たちが機動隊とにらみ合っていた。クルド人を抑圧するトルコ政府に対して軍事支援を行うドイツ政府への抗議デモ。そのとき、数人のクルド人の男が突然、ガソリンをかぶって自らに火を放ったのである。
衝撃だった。自分の体に火をつけてまで訴えることがあるなんて、想像もつかなかった。同じ時代を生きているはずなのに、全く違う世界を生きている人々がいる。これはどういうことだろう。なぜなんだろう…。この映像は玉本さんに深い印象を残した。
クルド人という人々に会ってみたい。玉本さんはそう思った。その後、知人が滞在するオランダ、アムステルダムを訪ねた。知人の案内でクルド人が集まるカフェに通い、彼らの文化に触れた。ある日の夕方、一人の中年男性が店に入ってきた。玉本さんは目を疑った。ニュース映像で火をかぶっていたうちの一人だった。
彼の名は「ムスリム」。やけどでただれた頭部が痛々しかった。玉本さんは彼に、テレビでムスリムさんの映像を見たことを語り、「なぜそんなことをしたのか」と疑問を投げかけた。すると彼は焼けたのどからか細い声を絞り出して、こう答えた。「私の故郷で起きていることを知れば、あなたも同じことをするはずだ」。当時のトルコでは、少数民族であるクルド民族の尊厳を否定するトルコ政府に対してクルド系住民が抵抗し、政府はこれを激しく弾圧していた。
トルコで起きていることを知りたいという思いが膨らんだ。そんなとき、知人にフリーランスジャーナリスト集団「アジアプレス」を紹介される。「取材して、撮影してみたら」とすすめられた彼女は、その言葉どおりに、カメラを抱えてムスリムさんの故郷であるトルコ南東部に向かった。大胆な「普通の人」である。玉本英子はこうして、ジャーナリストの道を歩み始めたのだ。
取材はトルコのクルド人地域からイラクのクルド人地域へと広がり、さらにコソボやアフガニスタンの取材へと広がっていった。ジャーナリストとしての力量が、現地取材を通じて磨かれていった。
それでも、ジャーナリストとしての活動だけで生活できるようになったのは、なんと2年前のことだと言う。日本ではフリーランスのジャーナリストが生きていくのは難しい。多くのジャーナリストが、実は別に仕事をもって生計を立てている現実がある。玉本さんの場合、それが派遣社員だった。大手企業の受付などをしていたという。
防弾ベストを着て戦地を走り回る姿と受付では大変な落差があるが、それはそれでとても勉強になったという。「ジャーナリスト志望の若者って、企業の歯車になりたくない、みたいな気分の人が多いんですよね。だけど私は全然そんなことなかった。企業のお仕事って真面目に働けばきちんと評価してもらえるでしょう? おかげですごく自信がつきました。楽しかったですよ」と笑う。
「戦場ジャーナリスト」の無頼なイメージからはほど遠い雰囲気で、しっかりした常識人であることをうかがわせる玉本さん。その個性は、そんな大企業での経験を通じて培われたのかもしれない。
“ヒロシマ”の現実をイラクに伝える
ところで、玉本さんはイラクの現実を日本に伝えているだけではない。実は日本の現実をイラクに伝える仕事もしている。2006年6月、玉本さんはイラクで「原爆展」を行っている。玉本さんの父親は広島で被爆し、その後は原爆症に苦しめられた。玉本さんがそのことをイラクで語ると、誰もが心配し、広島の話を聞きたがった。とくに、フセイン政権時代に化学兵器による攻撃で5000人が亡くなった、イラク北東部のハラブジャでは、人々は広島に強い関心をもっていた。そこで玉本さんは、ハラブジャで原爆展を行うことを決めたのである。全て「自腹」だった。
被爆者団体に頼んで資料を借り、イラクまで運んだ。被爆者の姿や焼け野原となった広島の写真など60点のほか、被爆して変形した瓦など。それに加えて、伯母から借りた“被爆した着物”も展示した。その反響は予想以上だった。会場を訪れたのは3日間で約600人。写真を見つめて泣いている男性もいた。現地のメディアも殺到した。多くの人が口々に「広島とイラクは同じだ」と語った。自分たちの現状と重なったのだろうと玉本さんは言う。
玉本さんは、日本で開く講演でもよく似た経験をしている。映像を交えて講演すると、高齢の人が「すごくよく分かる。私も戦争中はこうだった」と言い残していくのだ。着物を貸してくれた伯母もそうだった。
時代が変わっても、戦争は変わらない。当たり前の生活が破壊され、人を殺めるために銃をもつ。そうした戦争の「本質」を、イラクと日本の被爆者、高齢者は経験を通じて共有している。「それに、子どもも素直に受け取ってくれる。戦争は恐いとか、映像に出てくるイラクの子どもは今どうしているのかとか、友達のように心配してくれる。大人がいちばんダメ。すぐに大上段の政治の話を始めたがる」。
この取材の直後、玉本さんはまたもイラクへと向かった。出発前に来たメールには、こんな言葉があった。「“市民に寄り添う”ことはしない、と言いましたが、現地の人々には寄り添います」。大上段から論じるのではなく、紛争現地で人々と出会い、その一人ひとりの姿を伝える。そこから見えてきたことだけを語る。それがジャーナリスト・玉本英子の真骨頂だ。