「戦争」の負担は日本社会にのしかかる
井筒さんはしかし、海外での武力行使によって重い負担を課せられるのは自衛隊員だけではないという。「戦争」の重みは、日本社会全体で担うことになるのだと。「自衛隊を海外で武力行使できる組織にするには財政的な裏づけが必要です。たとえば砂嵐が吹き荒れる砂漠でも戦えるような装備を新たに買わなくてはいけない。他の国の軍隊だと戦地に行くときは装甲された救急車をもって行きます。そして実際に戦闘が始まれば、銃弾も装備品もその分、消耗するわけですから、それを補充する必要がある。派遣先で隊員が亡くなった場合の手当ても必要です」
井筒さんは、「戦争ができる国」に必要な支出を次々と積み上げていく。
「中でも大きな問題なのは、自衛隊員の年齢構造です」。井筒さんはそう言いながら、この図を見せてくれた。
「左が1991年。俺がいたころですね。当時は20代が広い裾野をつくっていました。その中心は任期制の『士』(外国軍の兵卒に当たる)クラスです。ところがこの図を見ても分かるように、今は高齢化が進んでおり、30代、40代の『曹』(同じく下士官)が中心です」
30代、40代の下士官ばかりの戦闘部隊……。
「彼らは20代と違って無理が効きません。戦場のストレスで四十肩になって腕が上がらないとか、スナイパーの目がしょぼしょぼして照準のぞいていられないといったことになる」
なるほど。そろそろ50に手が届く筆者にも、痛いほどよく分かる。
「そしてこれが実は、財政の問題にもなるんですね。戦死すると2階級特進と言って二つ上の階級に繰り上げた処遇が与えられます。陸上自衛隊の3等陸曹(伍長)なら一等陸曹(曹長)に、一等陸曹なら准陸尉(准尉)に特進です。そうなると、20代の陸士が亡くなった場合より、退職金や遺族年金がはるかに跳ね上がることになります」
政治家はこんなこと全く知りませんよ、と井筒さんは呆れる。
「現時点で、防衛予算は約5兆円に上っています。専守防衛でこれだけかかっているのです。海外で戦争できるようにするのであれば、これが6兆円とか7兆円に膨らむといった程度ではすみません」
2倍の10兆円とかまで積み上がる可能性もありますかと尋ねると「2倍で済めば御の字じゃないですか」という答え。
「再来年、消費税が10%になりますが、その大部分を防衛予算に回す必要が出てくるでしょうね。そうなれば、自民党が掲げている2020年までのプライマリーバランスの黒字化なんて夢のまた夢ですよ。社会保障の給付も削らなくてはいけないでしょう」
海外に自衛隊を出していく「積極的平和主義」には大変なお金がかかる。こんなこと、安保法制の議論の中で誰も教えてくれなかった。
「結局、軍事を強調する『右』も平和を叫ぶ『左』も、戦争のリアリティが分かっていないんですよ。シビリアンコントロールって言うけど、最後にそれを保障する国民がそれを分かってない。その国民が、また戦争を分かってない政治家を選ぶ」
悪循環だ。その上、そんな循環を回りながら戦争に近づいて行くようでは、たまったものではない。
実弾を使った過酷なレンジャー訓練
今でこそ「戦争のリアル」を縦横に語る井筒さんだが、日本の国防を担おうという気持ちで自衛隊に入ったわけではない。高校で陸上選手として活躍していた彼が目指していたのは、自衛隊体育学校への入学だった。体育学校で昼夜、競技に励み、いつか日の丸を背負ってオリンピックに出場するのが夢だった。ところが全国から精鋭が集まる体育学校の競争は想像以上に激しく、彼は一般部隊への所属を命じられてしまう。思いがけず普通の自衛官生活を始めた井筒さんだったが、19歳のとき、上官に「大型免許も取れるし、定年退職できる階級まで行けよ」と薦められた。このまま生涯、自衛隊で勤務するのもいいかもしれないと思い始めていた彼はこれに従うことにした。旧軍で兵卒に当たる陸士のままだと、2年の任期が終われば自衛隊を出ることになるが、「陸曹教育隊」での厳しい訓練に合格すれば、下士官として定年までの正規雇用になる。
井筒さんは、どうせならその前にさらに厳しいレンジャー訓練も受けて一目置かれる存在になってやろうと決意する。オリンピック出場を目指したくらいだから、体力には自信があった。レンジャー資格をもつのは自衛官の数%にすぎない。過酷な訓練に、上官に勧められてもしり込みする人も多いという。
レンジャー訓練では、最初に素養試験と呼ばれる体力テストがある。懸垂や腕立てを限界まで行い、最後には4.3キロの小銃を決められた角度、決められた位置で持ったまま2000メートル持久走。その後は実戦訓練だ。最初に遺書を書かされる。死ぬこともあるからだ。
訓練内容は、教官が機関銃を発射する下でのほふく前進や、橋の爆破、谷間にロープを張った「ロープ渡り」、敵軍捕虜の尋問、完全装備での20キロ走……。「その過酷さは皆さんの想像をはるかに超えていると思います」と井筒さんは言う。使われるのは全て実弾。機関銃の弾が飛び交う中でのほふく前進のときは、「今、頭を上げたら俺は死ぬんだな」という思いが頭をかすめた。
最も鮮烈な記憶が残るのは「生存自活」と呼ばれるサバイバル訓練だ。武器だけをもって山間を行く。食べ物は自前で調達しなくてはならない。ヘビを殺して皮をはぎ、手ごろな大きさにちぎり、ポケットに入れて携行する。「味はどうかって? 生臭いだけです。でもガムのようにかんでいれば、空腹がまぎれますから」。
3カ月の間、「レンジャー!」という言葉以外を許可なく発してはいけない。3歩以上の移動は全て走らなくてはいけない。訓練が進むほど、「食べない」「眠らない」が徹底していく。極限状況でも任務を遂行できるようにするためだ。「これが戦争か。苦しいものだな」。そんなことを考えた。
3カ月の間に脱落する隊員や死亡する隊員も出るレンジャー訓練に、井筒さんは見事合格。その後、陸曹教育隊を経て、三等陸曹として重迫撃砲中隊に配属され、部下をもつようになった。「プロの自衛官」としての自信と自負が育ってきた。そこに先述のPKO協力法が制定されたのである。「あまりに理不尽だ」と感じた井筒さんは、93年3月に退職した。その後、大学に入り、震災ボランティアとして神戸で汗を流す中で政治の世界に興味をもち、地方議会で議員として活躍するに至る。議員活動の中でも、専守防衛の自衛隊で務めた誇りを胸に抱きながら、憲法9条の大切さを訴えてきた。
「どちらにしても国民の覚悟が必要」
それにしても、極限状況を生き延び、実弾が飛び交う中に身をさらすレンジャー訓練を経験した井筒さんである。戦場で殺し、殺されるかもしれないことへのリアリティは、私たちとは比べものにならないだろう。気になるのは「殺す」という問題だ。戦場で誰かを殺さなくてはいけないことを、受け入れることができたのだろうか。「殺すということに躊躇(ちゅうちょ)は感じませんでした。レンジャー教育でしんどかったのは、飲めないとか食べられないといったことであって、殺すことには抵抗も迷いもなかったですね。どんなことをしても自分は生き残るのだ、という生への執着と任務遂行が全てです」
井筒さんはためらいも見せずにそう語った。
「残念ながら人間って環境に適応しちゃうのですよ。戦争が始まれば、それが当たり前の社会になれば、今は、平和を!って叫んでいる人たちの大半も、適応して軍人化してしまうでしょうね」
しかし井筒さんはそんな社会を望んでいないのでしょう?と畳み掛けると、井筒さんは「そんなことにならずに済む社会を守ろうと頑張ってきたつもりです。でも、俺が望むかどうかじゃなくて、皆さんが決めることですよ」と突き放すように答えた。
「結局そこに尽きるのですよ。自衛隊を国内の運用にとどめるのか、海外にも出していくのか。専守防衛でやってきた自衛隊に海外での運用は無理というのが俺の考えですが、それでもやるというのなら、先に申し上げたように防衛予算を拡充しなくてはいけませんね。それに、介入される側から見れば、いくら後方支援と言ったって、日本は参戦国です。