外資系金融機関勤務の高額所得者だった彼は、子どもを引き取った前妻に支払う養育費を、かなりの高額に設定されたという。ところが、金融危機で転職を余儀なくされて収入が激減、養育費の軽減を前妻に申し入れたものの拒否されているというのだ。
「前妻は養育費でブランド品を買っている一方で、こちらは生活苦。再婚の話もあったが、養育費のことを話したら、破談になってしまった。『レガシーコスト』が重くのしかかっているよ」と、金融マンらしい専門用語を使って、自らの窮状を解説する。
「レガシーコスト」とは、文字通り過去の遺産(legacy)によって発生する費用(cost)の支払いを意味する。
企業経営では、製品を作るための原材料費やオフィスの賃貸料、さらには従業員の給与など、様々な費用が発生する。レガシーコストもそうした費用の一つだが、決定的な違いは、原因が過去の制度的な部分にあり、それが現在の経営の重荷になっているという点だ。
レガシーコストで最も重いものが、退職者に対する年金や医療費の支払いだ。
企業や団体の多くは、退職した従業員の生活を安定させるために、企業年金などの独自のシステムを持っている。一定の金額を積み立てて株式などで運用、退職後に年金などの形で受け取るのだ。
福利厚生の一環であり、従業員にとっては老後の不安を解消してくれるありがたいものだが、それを支えるのは「現役世代」だ。
企業の業績が安定し、積み立てられたお金が予定通りの運用益を上げていれば、それほど大きな問題は生じない。しかし、株式市場が大きく下落するなど、運用環境が悪化した場合、予定していた額の年金を支払うことが不可能となる。この場合、年金の支払額が決まっていることから、企業は年金の積み立て不足を補うための費用を計上、これに伴って業績は悪化、場合によっては社員の給与削減につながる事態となる。退職者への「養育費」の支払いによって、現役社員の生活が圧迫されてしまうのだ。
高額所得者の養育費がより高く算定されるように、レガシーコストも、優良企業ほど大きなものとなる。アメリカの場合、政府が提供する年金や医療保険の制度がないことから、企業の負担割合は一層重くなる。その典型的な例が、2009年6月に連邦破産法第11条を申請したゼネラルモーターズ(GM)だ。
GMの退職者に対する年金や医療保険の制度は、アメリカの企業の中でも、とりわけ手厚いものだった。これを支払うのは現役世代であり、その費用は自動車の生産コストに上乗せされている。ある試算によると、その額はGM車1台当たり13万4000円、トヨタや日産の1万円前後とは比較にならないほど重いものとなっていた。
深刻な経営不振に陥ったGMは、退職金や医療保険の水準を引き下げようと、労働組合との交渉を続けた。しかし、「こちらにも生活がある。約束は守ってもらわないと困る」と交渉はまとまらなかった。巨額のレガシーコストを背負っていることを嫌って、救済合併に乗り出す企業も出てこない。前妻に養育費の減額を断られ、再婚の道も絶たれたことで、GMは破たんの道へと突き進んでしまったのだ。
日本でもレガシーコストに苦しむ企業は少なくない。また、国家全体が莫大なレガシーコストを抱えていて、破たん寸前だとの指摘もある。
外資系金融機関で仕事を続けていれば、養育費も十分支払えたという知人同様に、企業も経営が順調に推移していれば、レガシーコストは吸収可能だ。しかし、業績が長期にわたって低迷すると、真綿で首を絞められるように、レガシーコストは企業の経営体力を奪うことになる。多くの企業、そして国家をも苦しめているのが、レガシーコストなのである。