山奥の温泉に行くためにバスに乗っていたときのことだ。1時間に1本しかないバスに飛び乗って一安心、と思ったが、現金を下ろし忘れていたことに気がついた。
財布の中には1000円札1枚と小銭だけ。目的地は遠く、運賃表示器の金額は800円、900円と上がり続ける。「運転士に事情を話せば、目的地まで乗せてくれるかな。途中で降りろ!なんてことにならないかな」と、どきどきしながら運賃表示器を見つめることとなった。
「金融モラトリアム」は、融資の返済が困難になった借り手に対して、支払いを猶予(モラトリアム)することだ。
お金を借りている人や企業を「乗客」、銀行などの金融機関を「バス会社」と考えよう。お金の借り手は、定期的に元本と利息という「運賃」を支払い、融資という「バス」に乗せてもらっている。返済が滞った場合には、金融機関は融資の回収という手段に出る。運賃が払えなくなった乗客を、バスから放り出してしまうのだ。この場合、金融モラトリアムは、運賃を払えなくなっても、乗客をバスに乗せ続けてあげることなのである。
融資先と金融機関が個別交渉し、条件によって支払いを猶予することは日常的に行われている。これに対して金融モラトリアムは、政府が支払いの猶予を制度化し、一定の強制力を持たせるというものだ。
金融モラトリアムが実施されるのは、天変地異や金融恐慌などの大規模な混乱が生じ、経済活動の混乱が広範囲に及んだ場合が一般的だ。
これまで日本では、1923年の関東大震災や、27年の昭和金融恐慌を受けて、それぞれ「緊急勅令」のかたちで金融モラトリアムが実施された。また、95年の阪神淡路大震災では、被災地の企業に対して、手形の支払いが猶予される措置が取られたが、これも金融モラトリアムの一例である。
しかし、理由はどうであれ、金融モラトリアムが実施されれば、金融機関の経営は悪化する。運賃をもらわずに乗客を乗せ続けるのだから当然のことだ。
こうした状況になると、金融機関は融資に慎重になる。「貸し渋り」だ。運賃を支払えない恐れがある乗客は「乗車お断り」というわけだ。したがって、金融機関の十分な理解と、政府のしかるべき補償が行われない場合、金融モラトリアムは、融資を受けようとする企業をさらに苦しめることになりかねない。
さらに、金融モラトリアムは、融資を受ける側のモラルハザードを引き起こす恐れもある。返済するつもりのない融資を受け、後は知らん顔という悪質な借り手が出てくる場合もある。運賃の支払いが一時的に猶予されていることを利用して、「乗り逃げ」をしようというわけだ。
運賃表示器の金額がついに所持金を超えてしまったため、「お金が足りないのですが…」と話すと、バスの運転士は「不足分は後で営業所に持ってきて下さい」と笑顔で答え、目的地まで乗せてくれた。運転士の「金融モラトリアム」で、私は予定通り温泉に着くことができた。
金融危機に伴う景気の悪化で、中小企業の資金繰りが厳しさを増していることから、金融モラトリアムを実施して、救済しようという動きが出ている。しかし、金融機関の事情を考えずに一方的に金融モラトリアムを実施すれば、混乱が拡大する恐れもある。
金融機関と借り手の間にしっかりとした信頼関係があってこそ、金融モラトリアムは効果を上げる。一方的な借り手保護はマイナスになることを、認識しておく必要があるだろう。