クーラーしかない部屋を、どうやって暖めるか…。その方法の一つが「量的緩和政策」だ。国家を大きな部屋、物価をその温度と考えると、中央銀行の金融政策は、温度調整に相当する。中央銀行は、温度が過度に上昇(インフレ)すると、政策金利の引き上げ(金融引き締め)によって空調を強めて冷やし、温度が過度に下落(デフレ)すると、政策金利を引き下げて(金融緩和)空調を弱める。
しかし、政策金利を使った金融政策は温度を下げるクーラー、つまり、金利を引き上げて冷やすことはいくらでもできるが、暖めることは不可能で、政策金利がゼロ(ゼロ金利政策)になった段階で手詰まりとなる。これでもなお、デフレが収まらず、部屋が寒い場合にどうすればよいのか…。そこに登場してきたのが、「量的緩和政策」だった。
世界の金融の歴史で、最初に量的緩和政策を行ったのは日本銀行(日銀)だ。バブル崩壊に伴うデフレ不況が深刻さを増す中、政策金利を下げ続けてきた日銀は、1999年2月に「ゼロ金利政策」に突入、政策金利の引き下げによる金融緩和は限界点に達した。
クーラーを完全に止めた日銀だったが、それでもなお、デフレ不況が続いた。「ゼロ金利政策を超えた政策を考え出すべきだ!」という強い要望を受けた日銀が編み出したのが、金融の歴史上初めての量的緩和政策だったのだ。
日銀は2001年3月、金融政策の目標を政策金利から、日銀当座預金の残高に切り替えるという、量的緩和政策を打ち出した。日銀当座預金とは、銀行などの金融機関が、日銀に保有している口座のこと。ここに大量のマネーを供給すれば、企業などへの融資が増加して経済が活性化、デフレ不況が克服されると考えたのだ。日本経済にマネーという「灯油」を大量に配ることで、経済を暖めようというのが、日銀の意図だったのである。
量的緩和政策の導入以降、金融政策を決める日銀の金融政策決定会合では、日銀当座預金の残高を政策目標にするようになった。最初に設定された日銀当座預金残高の目標は「5兆円程度」だったが、その後もデフレが止まる気配を見せなかったことから増額が続き、04年1月には「30兆~35兆円程度」にまで拡大されていった。
「灯油をどんどん使ってください!」と、大量のマネーを供給した日銀だったが、効果は限定的だった。日銀がマネーを供給する先は銀行であり、それを融資に回すかどうかは銀行自身の判断となる。日銀からマネーの供給を受けても、それを融資して焦げ付いた場合の損失は銀行が被ることになる。厳しい経済環境が続く中、銀行は融資に慎重な姿勢を変えず、日銀から供給されたマネーの一部しか融資に回さなかった。日銀が供給した「灯油」は、銀行のタンクに貯蔵されたままで、デフレ解消と景気回復にはほとんど役に立たなかったのである。
2008年に始まった金融危機に対応するために、アメリカでは中央銀行に相当するFRB(連邦準備制度理事会)はゼロ金利政策、さらに住宅ローン担保証券(MBS)を購入して、代わりに大量の資金を投入するなどの方法で、事実上の量的緩和政策に突入した。
日銀当座預金に相当するFRBの準備預金は、同年11月の平均残高が3カ月前に比べて14倍と急増したが、これは、供給されたマネーが融資に回されず、銀行内に滞留していることを示しているのだ。
冷え切った部屋を暖めるために、大量の灯油を配るという「量的緩和政策」。しかし、灯油はなかなか人々の手元に届かず、部屋の温度が下がり続けるデフレは日々深刻さを増しているのである。