川本 作品もですが、本人が恐れられているんです。自分で小説書きながら、エッセイで他の小説家に襲いかかったりしていますからね。すごい論争家なんです。喧嘩していない小説家のほうが珍しい(笑)。トマス・ピンチョン1人をこきおろすために、長いエッセイ書いたりしてます。
鴻池 ははは(笑)。作品、読みたいな。三島由紀夫の『不道徳教育講座』で言及されたりしているけれど、翻訳もいまは全部、絶版で読めないしな。『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』にも登場するし、この作品を読むと、申し訳ないけど、作者の川本さんよりゴア・ヴィダルに興味が湧きました。
川本 それは嬉しい感想です。ゴア・ヴィダルを批評しようと思ったら、インタビューまでしたのにうまくいかなかったんですよ。「この野郎を小説にしてやろうか」っていう気持ちで書いたところもあります(笑)。どこか自分のなかで、大好きだったからこそ彼を清算したかったんですよね。清算するためには、「彼を乗り越える小説を書くぞ」という、わけのわからない欲望に突き動かされてもいたんです。こんなに分量も多くなって、着想してから本が出るまで10年以上かかってますけど。
小説に自意識はいらない!
鴻池 川本さんが鼎談(鴻巣友季子・川本直・青木耕平「アメリカに抗するアメリカ文学」『文學界』2022年10月号)で言っていた「作家固有の声は詩、戯曲、小説といった創作には要らない」という言葉が印象に残っています。
川本 自分はいらない、自意識は小説に必要ないと思ったんですよね。
鴻池 多くの人は誤解してますよね。特に純文学だと〝自分のこと〟〝本当のこと〟を書かなきゃいけないという縛りがあると思われている。
川本 そうですね。日本には「私小説」の伝統がありますからね。鴻池さんは別にそこに縛られてないでしょ?
鴻池 いや、かなり縛られている自覚があるんです。でも、思い出してみると僕が最初に〝小説〟を書いたのは小学校の作文なんですよ。つまり、作文なんだけど先生に花丸つけてもらうためにウソをついて書いたものなんです。デビューしてから、その感覚を忘れていた感じもするんです。
川本 作り話として書くと決めたときに、自分が解き放たれる感覚がありますよね。
鴻池 ええ、僕がその快感に目覚めたのはそのときの作文なんですよ。
川本 よく小説では〝他者を書け〟みたいに言われることがありますよね。自分ではなく他者を書くことが大事とか言うけど、あれは正確には、自分が解き放たれて勝手に他者になってしまうんですよね。
鴻池 そこが小説を書いていて気持ちいいところですよね。
川本 そう、自分が消えるのは気持ちがいいですよ。いま、サウナがブームなのも、あれは自分が消えるからですよ。
鴻池 なるほど!
川本 いい「私小説」を書いている人は、自分を消して巧妙にウソを書いているんですよね。太宰治なんかも語り手は「私」でも、書かれている内容はウソなんですよね。自分の経験は材料には使えるけど、それはあくまで材料でしかない。自分の経験をそのまま書いても身辺雑記か、ご意見表明でしかないですよ。
鴻池 小説を書く上でウソって大事ですよね。
川本 自意識を突き詰める文学は20世紀で終わったんですよ。自意識をぐるぐるするのをやめて、これからはウソを極めた文学があっていいと思う。
鴻池 確かに僕らは〝フィクション〟というウソをどううまく活用できるかで勝負しているところありますね。
川本 自分のことをそのままエッセイ漫画にする作者とか、描いている本人がボロボロになって描けなくなるでしょう。それはウソを入れないで描いているからですよ。自分を守るためにもウソは大事です。内田百閒は自分を売りにしたエッセイをたくさん書いてますよね。いかにも自分の面白エピソードをそのまま書いているようで、実はウソも多いんですよ。話を盛って書いている。だから、長生きして書けたんだと思う。結局、人はウソでできた作り物が好きなんですよ。いきなり本物の死体とか見たら耐えられないように、ウソというクッションを置かないと現実を正視できないことがある。ウソをつくことでしか語れないものってこの世の中にたくさんありますよ。
鴻池 まさに川本さんの『ジュリアン・バトラー』はウソによって現実のアメリカ文学史を書き換えるような楽しさがありました。書いている川本さんもめちゃくちゃ楽しそう。
川本 ありがとうございます。書き手のほうもウソをつきながら楽しんで書くのは大事ですよ。だから、楽しく書くためにも、書き手は、主人公と作者が一体化して〝主体〟として書いたり、意見を表明したりする書き方はやめたほうがいい。あまりに主体にこだわって書こうとすると、市ヶ谷駐屯地で「お前ら、聞け。静かにせい!」と叫んで腹を切ることになります。
鴻池 小説は世界や人間を客体化する作業かもしれませんね。僕は作品を書き終わると、自分の書いたものじゃない感じがするんです。自分の小説が読者に勝手に解釈されるのが気持ちよくてしょうがないんですよ。
川本 いいですね。
鴻池 誤読されてもいいし、自分の作品で自由に遊んで欲しい(笑)。
川本 まさに〝客体〟としての小説家を目指されていますね。江戸の戯作者なんかはそれが自然にできていたんですよね。当たり前ですけど、井原西鶴に〝近代的自我〟なんてないわけで。女も男も食って、それも飽きたので舟遊びをしていますみたいな主人公が出てくる。西鶴は〝こんな主人公を見て楽しんで〟という書き方をしてるんですよ。