現代における「言文一致」が必要?
川本 ただ、書き手としては、読者がダメだとばかりも言っていられない気もするんです。というのも、いま小説の「書き言葉」と、日常的な「話し言葉」の二つの間に激しい乖離が起きている気がします。そこに書き手がもっと敏感に反応しなければと思うんです。そういうことも考えて、たとえば、私は書くときに「○○である」という言葉を極力使わないようにしてます。日常の話し言葉で使わないでしょ。日常語で「〇〇である」って使うと「帝国軍人かよ!」ってツッコまれますよ(笑)。
鴻池 ははは(笑)。あっ! 笑ってる場合じゃないや。「〇〇である」っていま書いている小説でめっちゃ使ってる。
川本 もう一回、「言文一致」を起こす必要があるんじゃないかな。それは純文学の書き手が主導するはずだと思います。
鴻池 そうですか!
川本 最近、「文學界新人賞」を受賞した福海隆さん、「太宰治賞」を受賞した市街地ギャオさんは、いまの日常的に使われる口語的な日本語をうまく使った文体で作品を書いているんですよ。
現代と近いところで「言文一致」が試みられたのは、80年代のおそらく「昭和軽薄体」と括られた一連の作家たちの文体だと思うんです。椎名誠さんとか、嵐山光三郎さんらですね。ただ、そのあと続かなかった。彼らと同時期に活躍した橋本治さんは「口語」を意識した独自の文体で、うまくいったと思うんです。でも、「言文一致」とは少し別の方向ですね。日本語で最初の「言文一致」を試みた、二葉亭四迷は外国語の翻訳をベースに、いろんな言葉をミックスさせていましたよね。二葉亭でも、そこまでうまくいってはいないんだけど……。もう一回、現代の「言文一致」を考えないと、読者にもう読んでもらえないんじゃないかと思うんです。
鴻池 あー、そこまで考えてなかった。
川本 評論も「はじめに」「おわりに」が必ずあって、「である」、「ではないだろうか」が濫発される。「いい加減にしろ! 商業文章だぞ!」って(笑)。「アカデミック・ライティング」のルールに縛られるのはわかります。論文はそのスタイルで書かないといけませんから。だけど、研究論文と雑誌に発表する評論は違いますからね。
鴻池 文末にわけがわからない「註」がいっぱいついている評論とかね。
川本 誰が読むんだよと(笑)。職人的な匠の技術みたいなものが書き手から失われた気がします。やっぱり、紙媒体がここ数年でどんどん廃刊になったのが大きいです。私もライター仕事していたんで知ってますが、紙媒体で色んなところに書きまくっているライターの方は、読者を楽しませる技術に長けていたんですよ。雑誌が書店に平積みされて、立ち読みで買ってもらえるかが決まるので、雑誌に書くライターはとにかく一行目で読者を惹きつける技術がないと、書かせてもらえないわけです。そういう紙媒体の書き方を知っている、いま50代、60代の人がそのノウハウを下の世代に教えることができればいいんですけどね。いまはwebがメインで個人で発信できちゃうんでね。技術が引き継がれないところがありますね。
読んでもらえないのが前提?
鴻池 いまさらなんですけど、川本さんにとって純文学って何だと思いますか?
川本 純文学というのは単に名称だけであって、〝何をどう書いてもよろしい〟ということだと私は思うんです。芸術性の高さを謳ってはいますけど、その芸術性の基準もよくわからない。だから、文学史を振り返ると、いつも混乱していて、どの小説が〝本当の文学なのか〟みたいな論争をずっとやっているんですよね。「自然主義文学」が本当の文学なんだとなったら、それに漱石や鷗外が反対するとか、芥川と谷崎の論争もあったでしょう。
鴻池 小説に「話の筋」がいるかいらないかみたいなやつですね。面白い「話の筋」があるのが小説の特権だと言ったのが谷崎でしたね。
川本 芥川は、話らしい話のない志賀直哉の純粋な小説が素晴らしいんだと言うんだけど、私は間違っているんじゃないかと思う。温泉行って、死んだ虫とか、じーっと見ているキモい奴の心象風景を書いた作品のどこが「純粋」なんだよと(笑)。おそらく、この「純粋」な小説というところから「純文学」という名称はきているんでしょうね。ただ、「純粋小説論」という評論を書いた横光利一の小説なんてめちゃくちゃでしょう。私は大好きですけど、技巧の極みを見せつけて、色んなことを小説で試していますね。基本的に小説は俗で雑なものだと思うんですよ。それが極まると、どのジャンルにも属せなくなるんですよ。
鴻池 しょうがないから「純文学」と名づけたと。
川本 ええ、そうじゃないかな。編集サイドの目線で捉えると、たとえばエンタメ書いていた矢作俊彦さんに、純文学の賞の三島賞をあげてますよね。規格外にスケールの大きいことを書く小説家をスカウトして、やりたい放題書いてもらえるのも純文学のよさですね。「純文学」と名づけてしまえば何でもOKという自由がある。エンタメのほうだと縛りが厳しいところがありますね。でも純文学のほうは、締切とかもノンビリしているし「いい作品ができるには時間がかかる」という構えが編集者にも共有されてますよね。私のような〝くさや枠〟の小説家も入れますし。「ゴア・ヴィダルが好き、吉田健一が好き」とか言ってる奴は仕方ないです。珍味が好きなんです。
鴻池 ははは(笑)。そんな枠があるんだ。
川本 ないですよ(笑)。
鴻池 そういう人も受け入れる懐の深さが純文学にはあると。そういう人って言い方失礼だけど(笑)。でもその枠にある種、誰も入ってこなければ、独占できて好き放題書けるかも。
川本 そうです。自ら進んでくさやになりたい酔狂な人はいないんで(笑)。