鴻池 なんか、川本さんが何でも当意即妙に答えてくれるから、調子こいて聞いちゃうんですけど、川本さんは「小説家」ってどういう存在だと思います?
川本 うーん、あえて規定すれば「職人」ですかね。お蕎麦屋さんとかに近いんじゃないですか。どうやって文章を書いて、読者を楽しませるかでしょう。それはお客さんに美味しい蕎麦を提供するのと変わらないわけで。「小説家」という肩書だけでは、何も意味しない。我々は、読んでもらえないのが前提で「僕の話を聞いてください。楽しませますんで」っていうので、書くじゃないですか。
鴻池さんも、「新人賞」は最初の応募で受賞したわけじゃないんですよね?
鴻池 何回も落ちてますよ。
川本 私も15歳の時に「文學界新人賞」に落ちて、そのあとも全然ものにならなかった。そこからどうやって読んでもらえるかを必死になって考えたんですよ。
鴻池 確かに新人賞の最終候補に残ったという連絡がきたとき、残った喜びより「読んでもらえたんだ!」という感動がありましたね。
川本 ですよね。落ちると、どうにかして読んでもらえるように努力するんです。「小説家」はその〝手練手管〟に「職人」としての腕が試されるだけで、高尚な存在でもなんでもないですよ。「小説家」が「芸術家」だというのは幻想です。ウソをつく技術が極めて高い、ごく一部の「職人」は、「芸術家」として尊敬されるかもしれないですけどね。でも大体、みんな陰キャのひきこもりで一日中、パソコンの前に坐って書いているだけですからね(笑)。
小説家になるには?
鴻池 会社の仕事をしていて出会う人のなかには、時々小説家志望の人もいて、僕が小説家だと知ると、「どうやったら小説家になれるんですか? 教えてください」と聞いてくるんです。でも、ツッコんで聞いていくと、どうも「小説家」という肩書に憧れているだけな気もするんです。
川本 小説が好きでという感じではないんですか?
鴻池 小説読んで感動したことないやつに限って「小説家」になりたがるんですよ。「どういう小説が好きなの?」って聞いても、その出してくる答えっていうのが誰かの受け売りばっかなんです。
川本 ああ。それはとても不健全ですよね。
鴻池 不健全だと思う。だからといって「お前に向いてないよ」とはなかなか言えない(笑)。
川本 そうですね。私なんかは、「小説が好きで好きで読んでいたら、いつのまにか文学の世界に迷い込みました」みたいな感じですよ。
鴻池 僕も近いです。もちろん僕も小説家になりたいとは思っていたけど、それは、好きなことやれるからですよ。
川本 おまけに、お金貰えるし。
鴻池 そんなに貰えないけど。
川本 うん。私なんて『ジュリアン・バトラー』は書き下ろしだから、生活が苦しくて、資料代だけで200万借金です。読売文学賞の賞金は全部、その借金返済に消えました。
鴻池 ええーっ、すごっ……。
川本 結局、楽しいから書いているところありません?
鴻池 あります、あります。
川本 だって、そうじゃなかったら、こんな少ない原稿料で書けません。私なんて借金までして(笑)。純文学の小説家はみんなドMなんでしょうね。
鴻池 あっ、いま言おうと思ったのに(笑)。うん、絶対そう。割に合わないです。
川本 本当に何か間違いが起きて10万部売れるなんてことが一生に一度あるかないかで、基本的にはまったく売れないわけで。
鴻池 好きだからやれるんです。漫画家なんて、本当に漫画が好きでなっちゃうもんじゃないですか。
川本 そう。だから、プロの漫画家になっても、あんまり偉そうにしないですよね。単にオタクが極まって漫画家になっただけだという感じで。
鴻池 そうそう、本当に漫画以外の知識がない(笑)。
川本 本当は小説家も同じなんですけどね。
鴻池 うん。小説家も基本的に〝小説オタク〟ですからね。
川本 そうですよ。偉くもなんともない。漫画家志望の人たちって最初は好きな漫画の絵を真似して書くでしょう。小説も一緒ですよ。最初は既存の作品の模倣でいいんです。たとえば、大江健三郎は初期の頃はフランスのサルトルやピエール・ガスカールの物真似してますしね。文学史を遡れば、漱石の『吾輩は猫である』はローレンス・スターンとかイギリス文学からパクッて書いていますね。そのまま、トレースしちゃうと著作権侵害でマズいけど、好きな作家の色んな作品からうまく引っ張って自分の作品にしちゃえばいいんですよ。
鴻池 小説家志望の人たちは、「自分だけのオリジナル作品を書かねば」みたいな、変な〝クリエイター神話〟にとりつかれすぎですよ。
川本 これから小説家になりたい人は、もうアホみたいに本を読んで、無限にある本の海に溺れて、好きな小説を真似して書いてみて、めっちゃ楽しいと思ったら続ければいいし、楽しくなければやめればいい、それだけです。
鴻池 最後にとてもいい意見が聞けました。今日はありがとうございました。