「純文学」だから許してよ!
永井 愚かな「私小説」を書きたいので、参考になるかと思って田山花袋の「蒲団」を読んだんですよ。「蒲団」は、国語の教科書の文学史では「自然主義文学」を代表する小説とか、かしこまった感じで紹介されているけど、けっこうとんでもない話じゃないですか。小説家の主人公が女性のお弟子さんにムラムラするみたいな話で、お弟子さんが使っていた蒲団の匂いを嗅ぐというところで終わる。ただ、この作品は読者が読みやすいように主人公の欲望をセーブして書いているなとも思ったんですよ。
鴻池 同感です。男の欲望ってもっとヤバいです。〝くんかくんか〟で済むわけない(笑)。
永井 ねぇ、もっとヤバいでしょう(笑)。
鴻池 その蒲団で何をしているか(笑)。
永井 蒲団にくるまりながら、うーんっ……てね。
鴻池 小説用にセーブして書いているんですよね。みっともなさすら演出しているんですよ。
永井 太宰治なんてその典型ですよね。
鴻池 本当にみっともないことは、読者も許容できない。世間に流通しないと出版社には思われる。
永井 最近はもっとコンプライアンスとかでダメですもんね。
鴻池 ねぇ、お利口さんばかりいる世界でつまらないです。きれいごとばかり言ってる文学なんて未来から参照されないですよ。僕らが田山花袋の作品をいまだにネタにするのだって、セーブしているかもしれないけど、花袋が当時のコンプラを破ったからでしょう。「自然主義」というフランスからきた概念を変に解釈したんだろうけど、当時の自然主義の作家たちもコンプラとか気にせず、モザイクなしでチンチンのこと書いちゃうぞと。
永井 全部、出しちゃうぞと(笑)。だから、芸術ということである程度は許容して欲しいですよ。戦後、「額縁ショー」というのがあったというじゃないですか。それは、額縁の枠の中に上半身裸の女性を立たせて、お客さんに裸を見せる。ストリップのはしりだけど、額縁があることによって、これはエロじゃなくて芸術ですと主張することができた。当時は裸を見せることは禁止されていたけど、警察もお咎めなしだった。それと同じく、どんなにコンプラとか破っても、これは芸術です、純文学ですという枠で許して欲しい。
鴻池 純文学は本来、無法地帯だったはずなんですよね。無法地帯のはずのところに変なロジックを入れて道徳を語ってくる奴がいる。バタ臭い言葉で装飾して、当たり障りない言葉を小難しくして語ろうとする輩がいる。そんなジャーゴンを使う奴らはすっこんでろって感じ。あー酔っぱらってきた……。
永井 ははは(笑)。
鴻池 そんな言葉は誰も欲してねぇんだよ!
永井 そうそう、欲しているのは、いつの時代も同じで、人間が渇望してあえぐようなもっとドロドロとした言葉でしょうね。それをおさえつけようとしてきれいごとな言葉に変換していくことで世の中全部がダメになる。
鴻池 おさえつけた言葉の行き場所はネットなんだろうけど、こっちはこっちで〝本当のこと〟しばりが多くて「エビデンスが~」みたいな世界になってウザい。SNSなんて喧嘩ばっかりで地獄でしょう。小説という「ウソ」をうまく使うメリットが純文学の世界にはあるんですよ。これを使わないでどうするのって感じですよ。
永井 小説によって、こんなに愚かな人がいるとか、いろんなダメなとんでもない人が世の中にいるんだと知ることができる。少々、その人が社会的規範から外れていても、全部ウソでした~で済ませたい。これは純文学ですから許してよって。〝純文だもの みつを〟ってね。
鴻池 ははは(笑)。全部、〝みつを〟で許してほしい。いや、〝みつを〟じゃ許されないや(笑)。
永井 ウソの話でいうと、最近、面白い気づきがありました。私には2歳の孫がいるんだけど、言葉を発するようになってきたんです。あるとき、孫と外に遊びに行くときに帽子をかぶらせたら、その帽子には紐が付いているんだけど、紐がないんですよ。なので、「紐はどうしたの?」と孫に聞いたら、「このあいだ、取れちゃったんだ」と答えるわけです。でも、帰ってきたら帽子の中にきちんと紐は入っているんですよ。「あるじゃないの」って言ったら孫はポカンとしていて、ウソついていたんですよね。まだ言葉を覚えたばかりなのにですよ。言葉というものを発せるようになると同時に、ウソもつけるようになるというか。言葉には、最初から虚実がない交ぜになる機能がそなわっているのかもと気づいたんです。
鴻池 なるほど。
永井 我々は人とコミュニケーションするうえで「言葉」を使うことは、欠かせないですね。その「言葉」は最初から「虚」と「実」が表裏一体になっているんだから、どちらか一方だけではダメなんですよ。たとえば「虚」だけを「悪」だと排除してはいけないんじゃないかな。きっと、現実が苦しいとなったときには「虚」が生かされるんですよ。手品やマジックなんかがいつの時代でも必要とされるのは、どこかでそれが「虚」=ウソとわかっていても騙されたいという心が人間にはあるからだと思う。騙されることで、現実を軽くするというか。
鴻池 いまの時代は「虚」と「実」、どちらかに傾きすぎているのかも。
永井 そうなんです。変な詐欺に引っかかるのも心のどこかで騙されたいと思ってるからですよ。「虚」と「実」のどちらかだけに偏ってもダメで、ふたつのバランスをうまく取りながら生きる必要がある。「虚」と「実」のあわいを楽しみながら、変な詐欺にも引っかからなくて済むように、日常におけるふたつの平衡感覚を鍛える訓練にも小説はなるんじゃないかなと思います。
鴻池 最後にとてもいい意見が聞けました。今日はありがとうございました。