書くことの宿命を生きる
鴻池 永井さんはいつごろから小説を書かれていたんですか?
永井 本格的に書いたのは、新人賞に応募するようになってからですね。20数年前に『文學界』に応募し始めて、何度か応募してるうちに一次通過したんです。その通過した作品は、自分の身を削って書いたものだったんですよ。「鶴の恩返し」の鶴が自分の羽根で機を織るみたいな感覚で書くと「予選通るんだ!」と気づいたんですよね。
鴻池 永井さんにとって、書くことは辛いこと?
永井 辛くなければデビューできないんじゃないかと思いました。書いていくうちに、サラサラ書けたものは新人賞で残らないのかもと思ったんですよね。それは、下読みされる人とか編集さんとか読んでくださる人たちも、生きていれば辛いことがあるわけで。読んでくださる人の傷みたいなものに触れるには、自分も傷つきながら差し出していく必要があるんだなと。
鴻池 なるほど。書いた後にスッキリした! みたいなことはないですか?
永井 それはないかも。ボロボロですね。自分の毛をむしり取って、血だらけで雪の中を歩いて、もう、ヘロヘロ~って感覚かな。
鴻池 それでもやめられないのは楽しいから?
永井 うーん……楽しいのかな。楽しいかどうかはわからないです。
鴻池 いや、なんでそんなこと聞いたかというと、失礼な言い方になってしまうかもしれないけど、永井さんの作品を読んでいると楽しそうなんですよ。小さいエピソードとか、これ思いついたとき楽しかっただろうなと。
永井 たしかに、辛ければやめればいいですしね。別に書かなくてもいいんだけど。
鴻池 そう、なんで書いてるんだろうと思うときもあるでしょう。
永井 やっぱり書くことの宿命というか……。選ばれたというか。神様が〝こいつに小説を書かせよう〟としているような感じがある。私は自分の生きている現実が辛ければ辛いほど、これは書くことを選ばれていることの証明なんだと思って生きてきました。
鴻池 苦境になればなるほど小説のネタが増えるぞと。
永井 そうそう! 日常でこれは小説に書けるか書けないか、脳内で勝手にジャッジが始まってるときがある。
鴻池 わかる! でもその日常のジャッジも疲れるんだよな~。
永井 疲れますよね(笑)。
鴻池 おっしゃっていることよくわかります。僕もデビューしたばかりの頃は、小説は筆一本あればやれるし、現に僕みたいな人間がデビューしてるんだから、小説家なんて誰でもなれるだろうと思ってました。でも、こうやって永井さん含め、いろんな小説家のみなさんと出会ってお話を聞くと、やっぱりこの人たちは選ばれた人たちだって思います。誰でもなれるものではないかもって。こういう選ばれた人たちが、同じ業界にいるんだから、自分も小説家という肩書を名乗れることにもっと誇りを持ってがんばらないとダメだなって思います。って、たまにはお利口さんっぽいことも言っておこう。
永井 いやいや(笑)。私もそう思います。
鴻池 永井さんはデビュー前に新人賞の最終候補に残ったことがあるんですよね?
永井 『新潮』の新人賞で2回最終候補になりました。それも20年以上前なんです。
鴻池 あっ、2回もなってたんだ!
永井 そのとき、私が小説を書くことで表現したかったのは自分の愚かさだったんですよ。書くときに、自分が他の人に負けない強みは、何だろうと考えていました。そうして考えると、自分には学歴も若さも美貌もないし、勝負できるものは愚かさしかないと。女性、男性の二元論で語ってしまうのはよくないかもしれませんが、私の実感として、女性は歳を重ねてゆくとみなさん賢くなってゆく。歳を重ねて愚かな女性はなかなかいないなと思ったんです。だから、愚かな女性を表現したかったんですよね。でも、2回最終候補になったけど、デビューはできなかった。そのとき、主婦として書いていて、愚かさを表現するには何か肩書が必要だと思ったんです。真面目な肩書があればいいんじゃないかと。それで、ケアマネジャーの資格を取ったんです。
鴻池 表現したい愚かさが真面目な肩書によってより映えるというか。たしかに、ギャップが出ますね。
永井 それとたとえば、掛け軸とかは箱書があることで価値がわかるんですよね。箱書にはタイトルとか、作者の名前とかが書いてあったり、ハンコが押されている。それがあるかないかで価値が変わってくる。ケアマネジャーの資格は私に取ってそれに近い感覚がありました。作品が完成するラストピースというか……。実際に時間はかかったけど、デビューできたわけですしね。たまたまかもしれませんけど。
鴻池 確かに「ミシンと金魚」という介護施設を舞台にした作品でいうと、作者がケアマネジャーを実際にやっているという肩書がかっちりハマる感じがしますね。やっぱり、純文学というのは当事者であることのリアルさが作品の価値を高めるところがある。純文学は作家個人を表現するものという伝統がありますからね。
永井 そう、私小説が重要視されるのもそこですよね。私は車谷長吉の私小説が好きなんです。車谷さんは「私小説」を「わたくししょうせつ」と読ませていたけど、彼が昔、『新潮』に「私小説廃業宣言」(「凡庸な私小説作家廃業宣言」2005年 2月号)を発表したんですよね。私は、「廃業する」とかわざわざ宣言するものなのか? って疑問だったけど、それを読むと宣言するくらいに命をかけて「私小説」は書くものなんだということがわかりました。まさに身を削るもので大変だなと思った記憶があります。でも、いま実は私、そんな「私小説」にチャレンジしているんです。
鴻池 そうなんだ!
永井 でも、本当のことを書くのって難しいんです。「事実は小説より奇なり」と言われますけど、あれは本当で、事実だけを書くとウソになるんですよ。
鴻池 そうなんですよね。この連載でも何度か話題になっています。本当のこと書くとウソっぽいから、ウソくさくないようにウソにウソを重ねて小説を書いている。本当にあったことはこうじゃないんだけど、って悔しいんですよね。
永井 これも不思議ですね。全部、ウソで重ねたほうが本当っぽくなる。