今回は引き続き、私と学生たちとの関わりについてお話しします。
私が仕事をしている武蔵大学(本部・東京都練馬区)の教職課程では、防災教育関連の授業を開講しています。日本の防災教育は1995年の阪神・淡路大震災以降、大きく変わりました。学校を防災拠点として位置づけ、その機能を担わせるようにする。そのために災害発生のメカニズムを知り、備え方や対処の仕方を普及させる必要が生まれたのです。東日本大震災後は福祉・医療系以外の大学や高校でも、防災教育がカリキュラムに加えられることになりました。ただこれまでの授業は、防災学を専門とする研究者・実践者を講師として学校に招く形で行われることが多く、教員自らが専門外の防災教育を率先して教えることは稀有でした。
そうした中、武蔵大学では「教育」の側面を重視し、教職課程で学ぶ学生に求められるものとしての防災教育を構想しました。2016年に防災教育を専門とする諏訪清二先生(兵庫県立大学客員教授)の公開講演会「災害体験と向き合い『戸惑い』から学ぶ防災教育」を開き、20年からは宮城県への訪問調査を実施して、以後は防災教育を教職課程のカリキュラムに入れることにしています。
23年秋学期の集中講義では、東日本大震災で被災した宮城県仙台〜石巻市方面に学生たちと足を運び、フィールドワークを行いました。
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フィールドワークの期間は9月4〜7日でしたが、教職課程の2〜4年生に募集をかけて春学期中には15名の履修生が決まりました。私はまず、彼らに『16歳の語り部』(雁部那由多・津田穂乃果・相澤朱音共著、佐藤敏郎監修。ポプラ社、2016年)という本を読んでもらい、レポートを書かせました。この本は11年3月11日の震災当時、小学5年だった宮城県の高校生3人による「語り部」の章、同じく県の中学校教師だった佐藤敏郎さんの文章で構成されています。私がこの本に出会った時、東日本大震災を身近に捉えるうえで一番の入り口であると考え、今回の学生たちへの課題書に指定したのです。
そうして9月4日に大学で事前学習を終え、翌日から宮城県へフィールドワークに出ました。最初に訪れたのは「せんだい3.11メモリアル交流館」(仙台市)です。館内には展示室や交流スペースなどがあり、東日本大震災を学ぶための場となっています。短い時間ではありましたが被災地の地図や写真についての解説を通して、学生たちは東日本大震災のあらましをつかむことができました。
2番目の訪問先は、仙台市若林区の「震災遺構仙台市立荒浜小学校」でした。2階まで津波が押し寄せたという校舎は、児童や教職員、住民ら320人が避難した場所でもあります。現地では、当時校長をつとめていた川村孝男さんに案内をしてもらい、そのあたりから学生たちの表情が一段と真剣になったように見えました。
さらに、宮城県多賀城高校(多賀城市)へも足を運びました。この高校は防災について学ぶ「災害科学科」を16年に設置し、普通科のカリキュラムにも防災学習を取り入れています。ここでは、災害科学科に所属する高校1年の生徒たちとワークショップを開催。3つのグループ内で、それぞれ「望まれる防災教育のあり方」について意見を出し合い、まとめて発表するというものです。初顔合わせの高校生と大学生が意見を交わし合うのは容易ではありませんが、特に教職課程を履修する学生にとって現役の高校生と相対するこのワークショップはよい機会になったのではないでしょうか。
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2日目は、津波によって児童108名中74名、教員10名が亡くなった「石巻市震災遺構大川小学校」(石巻市)を見学。ここで先述した『16歳の語り部』の監修者である佐藤敏郎さんが案内人として登場し、学生たちを驚かせました。佐藤さんは震災当時は女川町立女川第一中学校(現・女川中学校)の教員でしたが、次女のみずほさんを大川小学校で亡くされています。その関係もあって、現在は「語り部」として案内を担当しているとのことでした。
「震災前にはこんな学校生活が、実在していたことを知ってほしい」
そう語る佐藤さんに、震災前の大川小学校の写真をいくつも見せてもらい、校地内に入って話を聞きました。佐藤さんは大川小学校の防災教育の不備、特に避難先を明確に決めていなかった等の問題点は強く批判していましたが、お子さんを亡くしているにもかかわらず教員への非難は一切しませんでした。当時、居合わせた教員らが児童を守るため全力を尽くしたであろうことを、同じ教員として「信じている」という気持ちが私には伝わってきました。だからこそ、防災教育の不備への反省と改善に向けて、大川小学校の経験を大切に生かすべきだと考えているのだと感じました。
その後、津波で壊滅した石巻市雄勝町の地元住民が立ち上げた復興拠点「雄勝ローズファクトリーガーデン」で徳水博志代表から防災教育の話を聞き、引き波で倒壊した「東日本大震災遺構 旧女川交番」(女川町)へ――。実はこのあたりから、私は訪問先で震災の記憶を追体験しながらも、翌日の「会議」の内容を考えていました。
この会議というのはフィールドワークのまとめの場として設定され、当初は後日作成する報告書について話し合う予定でした。しかしここで、私は2日間のフィールドワークへの同行で思うところがあり、会議の内容を変更して学生たちに新たな課題を与えることにしました。
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夕食の席で私は学生たちに、「明日の会議では、このフィールドワークで考えたことを一人3分間で発表してもらいます」と伝えました。彼らが2日間を振り返り、考える時間をもつことが重要だと考えたのです。彼らにとっては、自由時間を課題制作にあてなければならなくなり、不満もあったかもしれません。