巨大な実験場、満州
三浦 安彦さんは、建国大学について、いまどのように捉えていらっしゃいますか?
安彦 建大は自由だということは、公に知られていた。というか、満州は自由だった。いろいろ誤解を招くかもしれないけど、満州国は十分あり得たんだというか、あれを「偽満」で片付けてはダメなんだという気がしますね。
三浦 そうですよね。例えば、いま日本で使われている新幹線の「ひかり」や「のぞみ」という名前も、満州の鉄道を走っていた列車の名前ですし、当時、新京(現・長春)には水洗トイレがあったりとか、上下水道が整備されていたりとか、日本よりもかなり進んでいる部分もありました。
安彦 新京の人が東京に来たとき、「わあ、なんて田舎だ」と言ったという記録をどこかで見たんだけど、そうだろうなと思いますね。
三浦 満州というのは巨大な実験場だったんですよね。もちろん1割に満たない日本人が残りの9割の現地人を統治するという支配や搾取の構図、あるいは現地の人の農地を分捕って開拓団が耕作したという負の部分はたくさんあります。ただ、実験的で先進的に取り組んでいた部分を全部なかったことにすることも、やはりできない。建国大学はまさにそうで、民族の異なる若者を寄せ集めて議論させるという、すごく実験的な教育をやっていますよね。
安彦 その実験的な新京という町だったから、国共内戦のときに「チャーズ」みたいなことが起きたのかなという気もします。
三浦 「チャーズ」というのは国共内戦中、中国共産党が長春(=満州の新京)の町を囲んで兵糧攻めにして、数十万人の市民を餓死させたとされる事件ですよね。
安彦 農村から来て都市を包囲する中国共産党側から見たら、新京ぐらい憎たらしい町はなかったでしょうからね。新京の都市地図を見るとよくわかりますが、非常に近代的な町だから、ぐるっとバイパスができてるんです。そのバイパスが包囲戦のときに、そのままバリケードになった。しかも、バイパスが二重になっていて、そのバイパスのあいだに人々が追い込まれるんですよね。国共内戦ってチャーズも含めて、私は何も知らなかったですね。最大の激戦地だったという場所に大きな林彪(りんぴょう)の銅像が立っていた。それで林彪が失脚したら、すぐそれをとり壊して、いまは毛沢東の像が立っている(笑)。それを共産党の若い連中が笑って言うわけです。「これは、このあいだまで林彪だった」と。だから、私が訪れた90年代の中国というのは、わりと空気は自由だったですね。
満州から見るいまの日本の「言論の自由」
三浦 異民族の若者たちが学んだ建国大学では、互いのコミュニケーションを成立させる土台としてまず「言論の自由」があり、卒業生たちはそれを非常に大切にしてました。一方、いまの日本は自由であるはずなのに、言論の自由がいろんなかたちで狭められているというか、思っていることを言いにくいような「空気」を感じます。当時、建国大学では、満州国をいかにつくるのか、どうやって守るのか、という秩序維持の部分とか制度設計について一生懸命議論をしているのですが、いまの日本はそういう議論がすっかり抜けてしまっているような気がします。トランプ政権の誕生でアメリカの政治がガタついているときに、本来であれば、この先日本をどうするのか、もっと日米安保や日米地位協定についてしっかり話し合いをするべきなのですが、トランプの言動だけに焦点が絞られ、日本の国家をどう守るのか、あるいはどう主権を回復するのかみたいな議論になかなか深まっていかない。
安彦 いま、SNSとかもちょっと陰々滅々としてて嫌だなと思うんだけど、日本の場合のその言論の不自由というのは、権力側が統制するからっていうのももちろんあるんだけども、リベラルの側の自主規制で物が言いにくいという二重の規制がはたらいてる気がしますね。例えば「満州国はあり得たんじゃないか」みたいなことは、ある種、禁句で言えないんです。あれは侵略の産物で否定しなきゃいけないんだと。やはり一番大きいのはマルクス主義の影響がいまだに残っていることじゃないか思います。ソ連が崩壊したときに、大きなパラダイム変換が起きるはずだったんだけど、なかなかそれがうまくいかなかった。
学生運動が当たり前だった時代
三浦 安彦さんは弘前大学の在学時代、学生活動をなさっていますよね?
安彦 僕は大学に行ったら学生運動をやるものだと思ってたんです。歴史の先生で課外授業をやった先生がいて、その人が毛沢東は偉かったとか、マルクス主義がどうだとかをやるわけです。「え、こんな講義があっていいのか?」と思いながら非常に面白かった。それが時代の主流だったから、それでよかったんですよね。