三浦 いま私は北東北の盛岡に住んでいるのですが、遠く離れた地方から中央を見る視座というのが、自分にとってとても有益に思えるんです。東京にいるとどうしても、世の中の巨大な渦に巻き込まれてしまうのですが、盛岡から遠景で東京が見ていると、何が起きているのか、逆によく見えるときがあるんですよ。
安彦 そうですよね。弘前では、新左翼系の活動家なんて、最大で50人もいないんですよ。その中に、中核、革マルから黒ヘルまで全部の党派がいるんです。だから、内ゲバなんかやっていられない(笑)。みんな冗談を言い合って、「まあ、一緒にやろうや」って仲良くするわけです。ところが、東京に行くと、ものすごくギスギスしてる。
まだ弘大でバリケードやっていたときに、党派の女子の先輩から「芝浦工大の生協で働かないか」といって東京に呼ばれたんです。東京に行くと、ほかの党派の人間をいびり出すために、喫茶店で自己批判をさせたりしているのを見て、東京は嫌だなと思っていたら、弘大に機動隊が入ったとかで「帰ってこい」と言われて、これ幸いと思って帰った。そしたら(弘大全共闘のリーダーとして建造物侵入と不退去罪で)逮捕されて、その生協の就職話もなくなって、逆によかったんです。
ノモンハンは意味深な事件だった
三浦 『虹色のトロツキー』では、1939年にソ連軍と戦って敗北したノモンハンの戦いで物語が終わります。日本の歴史としては、ノモンハンから1945年までのほうが大きく動いていると思うのですが、その前に終わるというのはどのようなお考えだったんでしょうか?
安彦 1945年8月15日で「戦争に負けた」っていう終わり方は、あまりに無責任だからやめようと思っていました。すでに連載が長くなっていたのですが、もっと長くして戦後の国共内戦まで描くか、あるいはノモンハンでやめておくか、どちらにするかでけっこう悩んだんです。ノモンハンというのは、逐次投入がおかしいとか、関東軍が陸軍中央の言うことを聞かなかったとか言われますが、もっと意味深な事件だったんじゃないか。ノモンハンで満州国軍も崩壊するし、そこでいろんなものが実質的に終わるということが大きな問題だと思ったんです。
ノモンハンの前線で戦った第23師団というのは、最後まで増援がなかったんです。荻洲立兵という軍団長は、反攻のために(ノモンハンから約200キロ離れた)ハイラルに兵隊を集めているわけです。休戦になってボロボロになった第23師団の兵隊がノモンハンからハイラルへ引き揚げてくると、武器も食料も速射砲も山ほどある。「こんなにあるのに、なぜ支援してくれなかったんだ」と。問題なのは、逐次投入すらしないで第23師団を見殺しにしたことなんです。大酒飲みの荻洲立兵軍団長は酒を食らって、「(第23師団長の)小松原(道太郎)には腹切らせなきゃいかんな」とか言ってたらしいですよ。
ソ連軍のBT戦車というのは速射砲で、戦車も撃てるような大砲が付いてる。ところが日本軍の八九式というのは、塹壕を撃つためのもので大砲が下を向いてるんです。それをノモンハンに持っていったって役に立たない。むしろ有効なのは肉弾攻撃だった。火炎瓶攻撃で、BT戦車はよく燃えたといいます。
孤立無援だった第23師団は、けっこう善戦していたんですよね。ソ連の崩壊後に統計が出てわかったのですが、ノモンハンでの死者数は、日本軍よりソ連軍のほうが多かったんです。
悪評高き「辻政信」という人間
三浦 『1945』に出てくる建国大学1期生の先川祐次さんは、満州国の諜報機関にいて、戦後は西日本新聞のワシントン支局長などでケネディ暗殺とかを見てきたなかで、よくこんな話をしてくれました。「物事を頭から決めつけて見てはダメだよ」と。先ほどのお話もありましたけど、「満州国とはこういうものだ」というのは愚論で、一個一個の事実を押さえて、自分なりに善悪などを判別した上で理解しなければいけない。先川さんは辻政信と結構仲がいいんですよね。「三浦君、当時の日本や満州国で、悪い国家をつくろう、悪い世の中をつくろうと思って活動した政治家なんて一人もいないよ。みんながいい国家、強い日本、いい世の中をつくろうとして、その中で間違えていった結果が、いまある歴史なんだから」といつも言っていました。