大人だったら『この先どうなるんだろう?』と不安に思ったかもしれないですけれど、子どもですから。どんな境遇であっても、生きるのが当たり前だったんです」
祖母に冷たく当たられたり、だまされて親戚の家に連れていかれたりしたにもかかわらず、星野さんは「私は割合恵まれていた」と思っているそうだ。だから当初は、自分の経験を語るのはとても嫌だったという。
「この本に出てくる他の皆さんみたいな路上生活もしてないし、毎晩布団で寝られたし、そんなに虐待もされていませんでしたから。それに身寄りがなかったわけではないので、自分の話は書きたくなかったんです。でも親を亡くしたことで、他の孤児の人の気持ちがとても理解できました。孤児はすがる場所がないし、心を打ち明けられる人がいない。自分の身を案じてくれる人が誰もいないんです。他の人の話を聞いていて『ああ、孤児ってこういうものなんだな』と、自分との共通点をいくつも見つけましたね」
親戚宅でろくに食事も与えられず、学校にも通わせてもらえずにこき使われたり、泥人形のような死体の山を目にしたりと、登場する11人は皆、一様に苦しい子ども時代を味わっている。23歳で結婚して伴侶を得たものの、夫の心変わりが怖くて路上生活をしていた過去を明かせないまま、夫に先立たれた女性もいる。
大人たちは戦争孤児に冷たかった 山田清一郎さんの体験
同書で紹介される孤児の中でも10歳で敗戦を迎えた山田清一郎さんのエピソードは、読む者の胸に鉛のような重さを残す。1945年3月17日の神戸大空襲で父を、次いで6月5日の空襲で母を失った山田さんは、母を亡くした翌朝、一人で神戸の三宮の駅に向かった。焼け跡に残っていた銀行の金庫を他の孤児と共にねぐらにし、戦争が終わっても金庫にとどまった。
「親も家もない孤児が生きていくには、『もらうか、拾うか、盗って食うか』しかありません。しかし、誰も食べ物をくれる人はおらず、拾うといっても食べ物など落ちていません。結局、生きていくには盗んで食べるしかなかったのです」(『もしも魔法が使えたら』より)
山田さんの仲間のアキラ君がトマトを盗んで逃げる際、米兵のジープにひかれて即死した。血の海で泳ぐ潰れたトマトが、アキラ君の「心臓の鼓動」のように見えた山田さんは、以来トマトが食べられなくなった。
その後、友人と上京し、上野や浅草で路上生活を始めた山田さんをも、「狩り込み」が襲った。狩り込む大人は孤児に向かって
「おまえたちは野良犬で、街のゴミみたいなもんだ。オレたちは街のゴミ掃除をしているんだ!」と言い放ったという。山田さんは同書の中で当時を、こう振り返っている。
「わたしたち浮浪児は、野良犬から今度はゴミになってしまったのです。
まわりの大人たちは、戦争孤児に対して本当に冷たかった――。
なぜ、戦争孤児になったのか。どうして浮浪児として生きなければならないのか。そう考えてくれる大人は、周囲にひとりもいなかったのです」(同書)
「山田さんにはもう何度もお会いしてますが、会うたびに絵をけなされるんです。『駄目だ。こんなもんじゃない』って(苦笑)。でも路上暮らしの子どもの生活をそのまま描くと、見る人が目を覆いたくなる気がして。私の絵だと優しすぎて悲惨さが伝わらないかなと思うこともありましたが、『このかわいらしい絵が、残酷な仕打ちを更に浮き上がらせる』と言ってくださった方もいました。それに山田さんにけなされるのは、励みになるんです。だって褒められてばかりでは、上達しないじゃないですか」
戦争は命だけでなく、弱者を思いやる心も奪う
誰かにとっては優しい父や母でも、孤児には冷たく当たったり、無視したりすることは珍しくなかった。戦争は人から命や住む場所だけではなく、弱者を思いやる心も奪ってしまうようだ。まだ小さかったとはいえ、家族と家を奪った戦争を行う国やそれに加担する大人たちを憎んだり疑ったりすることは、当時の星野さんにはあったのだろうか?
「いいえ。だってまだ子どもでしたから、国を疑うなんてことはありませんでした。だから生きてこられたのかな。終戦時に9歳だった永田郁子さんが、お会いした時に『子どもだった頃よりも、今の方が苦しい』って言ったんです。年を取った今の方が、孤児になった悲しみが深いと言うんですよ。子どもの頃には見えなかった、世の中が見えてきますからね。それに戦争が始まると、誰もが夢中になっちゃうんです。あれ、何て言うんでしょうね。一種の催眠みたいな。それが怖いです。最初の頃は戦争に反対していても、いつしか翼賛する方向に変わる人も多かったですから、私は戦争そのものが怖い。始まるところまで行っちゃったら、もう遅いんです」
終戦後に身を寄せた千葉の伯父は大農家で、農繁期になると星野さんも学校を欠席し、作業に駆り出された。しかし農作業そのものは嫌ではなく、よく働いたおかげで丈夫になったと笑う。それでも20歳を過ぎたら、東京に戻ると決めていたそうだ。
「伯父は優しい人でした。実の子どもがいないから、私をそばに置きたかったらしいんですけど、それを知っても東京に戻る気持ちは変わりませんでした。縁談も色々ありましたが、育ててもらった家からお嫁に行くと、『育ててもらった』という気持ちが抜けきらないんじゃないかと思ったし、自由に生きたかったんです。私、わがままなんですよ、すごく(笑)。でも学校に行かせてもらったから、卒業してから何年かは伯父の農業を手伝いました。育ててもらった恩はそれで返せたと思ったので、以降は自分の人生を歩みたかったんです」
こうして自分の人生を歩んできた星野さんは、80歳を過ぎてからもなお、新しい出会いを果たしている。中国の重慶で起きた「重慶大爆撃」のイラスト制作を、被害者と遺族からなる「重慶大爆撃訴訟」(2006年に始まった日本政府を相手に、爆撃による被害の補償と謝罪を求める裁判)の弁護団から依頼されたのだ。重慶が焼き尽くされる様子をやはり優しいタッチで描いたイラストは、2017年10月に九段生涯学習館(東京都千代田区)でのイベントで展示された。
「私、自分がそうだったから戦争孤児の思いは分かるんですけど、戦争に関しては何にも分かっていないって気付いて。だから今、中国の重慶であったことを教えてもらっているんですけど、本当にびっくりすることばかりで。日本がかつて重慶を攻めて死者を出したことすら、よく知らなかったんです。だから描いていますが……すごく難しくて。下描きまではいいんですけどね。炎は色鉛筆だとうまく表現できないから絵の具を使うんだけど、失敗しちゃう。もう何枚同じ絵を描いたか。でも戦争の話を聞けば聞く程、描きたくなるんです。本って1冊出すと、次も出したくなるものなんですね(笑)」