“敗戦からの復興”と聞くと、個人的には「闇市で手にした食料を分け合って、貧しいながらも健気に生きる人々」の姿を想像してしまう。実際、そのような家族や若者をテーマにしたドラマやマンガは枚挙にいとまがない。しかし親を失った戦争孤児は健気に生きるどころか、その多くが苛烈な生活を送ることを強いられていた。
84歳の星野光世さんも、その一人だ。1945年の東京大空襲で両親ときょうだい二人を失い、幼い妹と弟と共に親戚宅に身を寄せた星野さんは、当時の記憶を「もしも魔法が使えたら 戦争孤児11人の記憶」(講談社、2017年)という本にまとめた。この本は星野さんを含め、11人の戦争孤児の戦中と戦後の体験が星野さんのイラストと共に描かれているが、星野さんが過去を語れるようになったのは、68歳を過ぎてからだという。11歳で敗戦を迎え、50年以上沈黙していたのに、なぜ今思いを形にしようと思ったのか。話を伺った。
4年前まで、ろくに絵を描いたことがなかった
「やっぱり世に残したかったんですよ。かつてこういう子どもたちがいたということを。戦争当時小学生だった人が80代に入っていますから、どうしても残さなきゃいけないと思ったんです。60代の終わり頃から、そう考えるようになりましたね」
自分の体験を語れるようになった星野さんが、戦争孤児のイラストを描き始めたのは2013年のこと。すみだ郷土文化資料館(東京都墨田区)で行われた、「描かれた戦争孤児」展がきっかけだった。
「学芸員の方からイラストを描いてみないかと言われたのですが、果たして私に描けるかどうか、非常に不安だった。いろんな人の体験を聞き取って、絵を描かせてもらいました。それまで、絵なんか描こうと思ったことすらなかったんですよ。なのにどうして、こうなったのかな(笑)」
星野さんは墨田区にあった蕎麦屋の、5人きょうだいの長女として生まれた。8歳の時に戦争が始まったが、しばらくはデパートに行ったり、友達と鞠つきやお手玉をしたりする楽しい日々だった。しかし1944年8月、戦争が激化する中で集団疎開をすることになり、家族と離れて千葉県に移り住む。7カ月後の45年3月10日、東京大空襲により自宅が燃え、両親と15歳の兄、生後6カ月の妹を失った。
終戦後は4歳の弟は父方の実家がある新潟に、8歳の妹と11歳の星野さんは母の郷里の千葉にと、離れて暮らすことを余儀なくされてしまう。23歳で単身上京後は精肉店や建設事務所などで働き、28歳で新潟出身の男性と結婚。以降は会社勤めと子育て、町工場を経営する夫のサポートに追われた。「だから絵はまったくの素人」と言うが、色鉛筆と絵の具を駆使したイラストは、柔らかで優しい線に満ちている。しかし描かれているものは空襲で逃げまどう子どもや黒焦げになった死体の山など、重いものもある。
「特に資料があったわけではなくて、戦争孤児の方にお話を聞いて頭に浮かんだシーンを描写しているんですよ。全て想像で描いていますが、その方の体験によっては、場面が浮かんでこないこともありました。でもこの本の一番最後に登場する山本麗子さんは、最初はインターネットで体験談を読んだのですが、10行ぐらいの短いものだったのに、絵がバーっと浮かんできて。それでお会いして聞き取りをしたくて、戦争孤児の会代表の金田茉莉さんに紹介をお願いしたんです。そうしたら『具合が悪くて伏せっているので、会うのは難しい。でも山本さんの体験を紹介するのは構わない』と言われたので、それで描いたんです。山本さんは、昨年お亡くなりになったと伺いました」
東京都品川区で生まれた山本麗子さんは、東京大空襲で父を、結核で母を亡くした。9歳で孤児になった山本さんは、静岡県西伊豆にあった叔母の家に預けられた。学校に行かせてもらえず、山で薪を拾って海岸まで運ぶ作業を1日に何度もこなした。海水から塩を採るためだ。別の親戚宅に預けられていた弟が、痩せ細った体で回虫を吐いて死ぬのを目撃した山本さんは「このまま叔母の家にいたら、わたしも、弟と同じみじめな死に方をするに違いない」と、11歳で家出を決意。十数日掛けて歩いて東京に戻り、上野駅の地下道で路上生活を送るようになった。ある時、路上で暮らす子どもを孤児収容所に送るための「狩り込み」のトラックに捕まって乗せられた山本さんたちは、茨城県の山中に捨てられたそうだ。
結婚式で「あの嫁さん、どこの馬の骨や」と言われる
今ではこうした孤児の姿は「なかったこと」のようにされ、戦後史の中で語られることはめったにない。
また戦争孤児は親がいないことで、周囲から蔑まれることもあった。星野さんも結婚式の際、夫側の親戚から「あの嫁さん、どこの馬の骨や」と陰口を言われたという。
「親のない子というのは、どんな目に遭わせようとも、どこからも苦情が来ないじゃないですか。だからでしょうね。でも、以前『孤児になってつらくて、死にたいと思ったことはありませんか?』なんて聞かれたことがあるんですけど、そんなことは思わなかったです。