書きたくても書けない!
鴻池 最新作の『死神』(朝日新聞出版)とても面白かったです。田中さんは本当に死神が見えるんすか(笑)。
田中 いやいや、見えないよ。見えないけれど、「死ぬってどういうことなんだろう?」と10代の頃に考えて、自殺を意識することも多かったんです。父が30代で亡くなったことも影響しているかもしれないです。父は病気で亡くなったんですけど、「死ぬってどういうことなんだ?」と。それこそ、これまでの純文学作品が描いてきたようなテーマですよね。その「死」ということを意識した先に、自分の頭の中だけでなく「死神」として自分の近くにいるかもと。実体として存在しているから、自分が「死」を意識しているんじゃないだろうかとシミュレーションして書いたんですよね。
鴻池 『死神』もそうですけど、「田中」という主人公が出てくることが最近多くないですか?
田中 そうですね。それは、ネタがだんだんなくなってきているんだよね……。私は小説家以外の生き方をあんまりしてこなかった。だから、小説家デビューしたことが自分の人生でものすごく大きなことだったんです。私の場合は、大学に入って文学を勉強したとか、何らかの下地があって小説家になったわけじゃなくて、自分が小説家になったことだけが下地なんです。前は19世紀のバルザックのように三人称で、劇的に物語が進むような小説を書きたいなと思っていました。でも、いま19世紀の小説の方法で書けるわけないし、そういう外側に大きく広がってゆく小説は自分には書けない。半径を狭めるというのは悔しいけど、もっと自分の内側の方に目を向けて書こうと思った。それで最近は「田中」という主人公が出てきて、それだけだとつまらないので、「死神」とかを出して主人公がジタバタしている様を書いているんです。
鴻池 そういう理由なんですね。
田中 普通、小説を書く際には、書く人に小説になる前の、何らかのテーマなりイメージなりモチーフなりがあると思うんです。そういうテーマを主人公に語らせる。またはストーリーにテーマを落とし込んで読者に伝える作業をしていると思うんです。でも、私には伝えたい切実なテーマみたいなものがないんですよ。本来、小説ではないものを〝小説〟にするのが小説家の仕事なんだと思う。だけど、私の場合は最初から〝小説〟を書いてしまっている。
鴻池 その〝小説〟の着想みたいなものはどこから得るんですか?
田中 そのとき読んだものかな。
鴻池 あっ、そうですか!
田中 谷崎読んでいると、こんなふうに書いてみたい、海外の翻訳ものを読んでいると、今度の新作は翻訳調の文体で書いてやろうかなとか思いますよ。それと、最新の文芸誌を読んで、それこそ、あなた方のような自分より若い世代の作品を読むとかで刺激を得ることもありますし。
鴻池 へぇ~、意外な感じもします。というのも、田中さんはアウトプットされたものに、インプットしたあとが見えない。何を読んでも田中さんの作品になっている気がするんです。
田中 影響されても、そんな風に書けないからね。こういう面白い作品が書きたい、でも書けない。かといって、本当に諦めたら1行も出ないわけで、書いてみる。書けるところまで書いてできた自分の世界の中で暴れてやろうというのが自分の小説なのかもしれない。
鴻池 今日、お話を伺ってみてわかったのは、田中さんは小説家にもなれないと思っていたけど書き続けていたとか、自分にはできないから諦めるのではなくて、それでもやり続ける人なんですね。多くの人は、できないと思うと諦めると思うんですよ。
田中 そこで諦める人にはほかに道があるんだと思う。自分には小説を書くほかに道がなかった。さっきあなたが言っていたけど、結局、自分という制約からは出られないから、その中であがいてやっていくしかなかったんだよね。