社会にどこまでコミットする?
鴻池 今年でデビューして20年になるということですけど、長く執筆を続ける秘訣、というか田中さんにとって書く原動力は何ですか?
田中 うーん……。何だろうね。私の場合は学歴がないし、手に職があるわけでもないし、それでも生きていかなきゃいけない。でも、職業意識ばっかりでもなくて……。
鴻池 ある種の強迫観念に駆られている?
田中 確かに怖さはあるかな。私が書けなくても、ほかにいくらでも作家はいるわけだから。自分の筆一本にかかっている。ほかにできることもないし、小説を書くしかないという意識が原動力かな。
鴻池 小説を書くのは楽しくないですか?
田中 楽しくはないな。「楽しい」ってところまでいければいいけど。その境地には達していない。ある程度書いて、「書き上げたな」という自負みたいなものはあるけど。強いて言えば、小説の構想を練っているときは楽しいかな。
鴻池 わかります!
田中 ただ、あと何年書き続けられるんだろうとか考えますよ。
鴻池 将来に対しての不安がありますか?
田中 それはありますよ。年齢的にあとどれぐらいできるかなとか。体力的にも落ちてきているしね。自分の狭い世界を書く私の小説の方法でどこまでやれるか考えますよ。いま、日本の文学だと女性作家が世界的にも評価が高いですよね。それは、彼女たちはやっぱり社会の要請に応えることに自覚的なんだと思う。自覚しているだけではなくて、自分の中の執筆するうえでのモチベーションと非常にうまく合致している気がする。そこは素直に羨ましいなとも思います。自分はそういう社会的なテーマに斬り込んでいくフットワークの軽さもないし、何だか自分の見えている狭い世界しか書けてないなと思う。
鴻池 そうですかね。社会的な要請に応えるのが小説家の仕事ですかね?
田中 いや、自分にはできていないんだよ。
鴻池 というのも、僕は小説家の目から見えた世界がすべてだと思っているんです。社会的なトピックだけが現代だとも思わない。小説にはいらないとすら思う。田中さんは「自分の見えている狭い世界」とおっしゃったけど、僕はそっちのほうが社会的にも重要だと思う。卑下する必要なんかないんですよ。すいません……。なんだか、大先輩に説教するような感じになってますけど。
田中 いやいや、説教して構わない。どんどん言って。
鴻池 社会的トピックを小説のために拾おうとしている奴らは、実は表現すべきものを持たない奴らですよ。小説になるテーマというのは、本来はニュースとか新聞に出てこないものなんだと思う。小説家個人が五感で捉えるものであって、そんなわかりやすいものではない。だから現代的なテーマというのは皮相的なもので、そんなものはちゃちな批評家や言論人が適当に拾って論じておけばいいんですよ。小説の世界はそういうのとは関係のないサンクチュアリであるべきだと思う。大体、現代的なトピックなんて、一瞬で忘れられます。10年前に流行ったトピックなんて誰も覚えてないじゃないですか。
田中 それはそうなんだけどね。
鴻池 なんかしゃらくせーんすよ。いま本屋さんで売るためだけじゃないかって。僕はもっと雑多な氾濫する情報のなかに埋もれていた面白いもの、誰も気づかなかった視点とかが小説で表現されていて欲しいんです。
田中 いや、言わんとするその気持ちはよくわかるよ。けど、現代で小説を書いて生活していこうと思うと、何らか社会の要請にも耳を傾ける必要はあると思う。
鴻池 まぁ、まったく売れないと困りますからね。
田中 こちらは自分の世界でやっていきますと胸を張って書いていきたい反面、その狭い足場の中から一歩でも、二歩でも外に出て見えるものを書いていきたい気持ちもある。でも、そう出ていってもまた自分の狭い世界に戻ってくるんだろうなという限界も感じているのが正直なところかな。
読むのと、書くのは大違い!?
鴻池 田中さん、いまも手書きで書かれているんですよね?
田中 そうですね。書き始めは手書きという方は多いかもしれませんが、私の場合は最初から最後まで手書きですね。
鴻池 編集者に嫌な顔されたことはありませんか?
田中 直接はないかな。裏では嫌われているかも。
鴻池 ははは(笑)。ある種、手書きで書くことにこだわりがあるんですか?
田中 こだわりはないけど、ずっと手書きだったので、手から離して書くということが想像できない。別に書いている指先に魂が宿っているとは思わないけど、でもこの指先から離して書きたくない気持ちがある。私はさっき言ったように大学で勉強して、小説家になったわけじゃないし、テーマがあって書くわけじゃない。そのことと、手書きで書くことはつながっている気もする。つまり、頭で書いているのではなくて身体で書いている。当然だけど漢字変換はないので、漢字がわからなければ辞書を指で引く。細かい作業でも身体で書いているなと感じることがある。テーマが頭に浮かんで、それを小説に落とし込むのではなく、いきなり小説を書くというのも、この身ひとつで小説に飛びつくように書くというか……。
鴻池 書くことがある種の運動のようになっている。
田中 そうだね。頭でなく身体が駆動して書いている感じがありますね。
鴻池 その運動で書くことがやっぱり楽しいんですよね?
田中 だから楽しくはないんだって!
鴻池 ははは(笑)。田中さんに小説書くのが楽しいとどうしても言わせたくて。
田中 これは反論ではなくて、小説を書くのが楽しいとは思ったことないんだけど、読むのは楽しいですよ。読むのが好きだから書くのが好きとはならないんだよね。読むのと書くのとは大違い。
鴻池 それはそうですね。
田中 小説を読まなければ書けないけど、読む行為と書く行為は同じかというと、全く違って逆の行為にも思える。読むことは言葉が身体に入ってくることで、書くことは身体から出ていくことですからね。小説を読むのが好きだという前提はあるし、読んだものの蓄積で書いたものはできている。かといって、書くために意図的に言葉を取り込んでコントロールしてアウトプットできるものじゃない。だから、10年前、20年前に読んだものが、いまになって出てきていることもある、読みっぱなしだと身体の容量がいっぱいになって、どこかで外に出さなければいけない。読むことで身体を通して言葉が入って、いっぱいになったら出ていく。私の場合小説を書くというのは、この身体で起こる現象の繰り返しをいままでやってきたという感じですかね。
鴻池 最後にとてもいい意見が聞けました。今日はありがとうございました。