沖縄県那覇市首里金城町にある、琉球王国(1429~1879年)の政治経済の中心だった城のこと。国指定史跡。正殿が何度か建て替えられたことを示す建物の基礎の石積みが残っており、沖縄本島内に残る他の琉球王国の史跡とともに2000年12月、「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」として世界遺産に登録された。1945年の沖縄戦で壊滅した後、84年に国営沖縄記念公園としての整備が決まり、二重の城郭の内側に正殿など執務用の建物や、王族の生活空間などが2019年2月までに復元された。同年10月31日、正殿が火元とみられる火災で、正殿や北殿、南殿など主要な建物7棟が焼失した。
成立年代は不明だが、出土する遺物から14世紀には使用されていたとされる。当時沖縄本島には、北山、中山、南山と三つの大きな勢力(三山〈さんざん〉)が分立しており、首里城は中山の拠点として浦添(うらそえ)グスク(浦添市)と同時に使われていたとみられている。
1406年、地方の権力者(按司〈あじ〉)だった尚巴志(しょうはし)が中山王の武寧(ぶねい)を討ち、中山王を名のる(第一尚氏)。さらに1429年には三山を統一。琉球国中山王として、首里城を拠点に中国と進貢貿易を行い、アジア各地との中継貿易で富を得て力を付けた。
1469年に金丸(かなまる。後の尚円王〈しょうえんおう〉)によるクーデターが起き、首里城の主は第二尚氏に代わる。引き続き中継貿易を中心に経済活動を行い、首里城を頂点に奄美から八重山まで琉球全土に及ぶ統治機構を整えていった。中国からの冊封使(さくほうし。国王の即位を認める皇帝の使者)を迎えた城内では組踊(くみおどり)などの芸能や漆器などの工芸が育まれた。
1879年に明治政府が沖縄県を設置して首里城の明け渡しを命じ(琉球処分)、国王の尚泰(しょうたい)が東京に移住させられ琉球王国は滅びた。城主を失った首里城には旧陸軍の熊本鎮台沖縄分遣隊が駐屯した。
1896年に熊本鎮台が撤退した後、地元の首里区に払い下げられ学校や公会堂として使われたが、老朽化著しく1923年に取り壊しが決まる。沖縄文化研究者の鎌倉芳太郎と建築家の伊東忠太が、文化的価値を主張して政府に取り壊し中止を要請。正殿の背後に沖縄神社を建立し、正殿を神社の拝殿として大規模な修理が行われた。1929年に国宝に指定された。
1945年の沖縄戦では、地下に旧日本軍第32軍の司令部壕が掘られ、約20万人が死亡した地上戦の指揮が執られた。米軍の攻撃で建物や城壁が壊滅した。
戦後、沖縄は米国の施政権下に置かれ、50年には首里城跡地に米統治機構が琉球大学を設置した。沖縄は72年に日本に復帰。国立となった琉球大学が80年代に現在の中頭郡西原町に移転して後、首里城正殿を復元して周辺を県営公園として整備する「首里城公園基本計画」が84年に策定された。首里城の建物を復元するための資料は、琉球処分時に国内外に散逸したり、沖縄戦で焼失していて収集に困難を極めたが、多くの研究者が探し当て、文書を解読した結果、1712年の正殿の姿を復元することが可能と判断。外見のみならず内部まで往時の姿を復元することに成功した。92年に首里城公園が開園した。城郭内は国営公園、周辺は県営公園。2019年2月からは国営公園の一部を県が管理。沖縄美ら島財団が指定管理者となっている。
復元作業と同時に発展してきた琉球史研究の成果は、沖縄がかつて自己決定権を持つ国だったという認識の高まりを生んだ。復帰以来、日本本土との格差が目立った沖縄県だが、90年代に県出身のスポーツ選手や芸能人が全国的に活躍し、沖縄の独自性が優位性として認識されるようになった。95年の米兵による暴行事件をきっかけに政治的な自立傾向も強まった。沖縄をめぐる社会状況とも相まって、首里城は沖縄の自立のシンボルと捉えられるようになったといえる。
2019年10月31日の焼失後、同年12月には国の「首里城復元に向けた技術検討委員会」が発足し、1992年の復元を元に正殿を2026年に再建することが決まった。県は首里城公園と連携する周辺の史跡やまちづくりに取り組むべく「首里城復興基本計画」の策定を進めている。