平成の毒婦・木嶋佳苗は「逆襲の癒やし系」である!
水無田気流(詩人/社会学者)
首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗被告は様々な意味でセンセーショナルだった。木嶋佳苗に恐怖や嫌悪を抱く人は多い。しかし「堂々としている」「男に媚びない」「男に振り回されない」と、彼女に憧れる女性もいる。木嶋佳苗を通して、迷走し続ける「かくも厄介な女の幸せ」を読み解く。
女の幸福神話のちゃぶ台返し
2012年は、もしかしたら「女の幸せ像」刷新の年かも知れない。しかも、ひどく乱暴に「定説」を覆す方向で。
思えばゼロ年代は、女の幸福像が保守反動を見せた時期であった。まずこの傾向を明らかにしたのは、酒井順子の「負け犬の遠吠え」(2003年)ブームである。同書の「いくら仕事ができて美人でも、30代以上・未婚・子なしは負け犬」との自虐ネタは、結果的に作者の意図からは逸れて該当女性たちを深刻に傷つけてしまった。焦る女性たちに追い打ちをかけたのは、いずれも07年にブームとなった上野千鶴子「おひとりさまの老後」、山田昌弘・白河桃子による「婚活」提唱、そして勝間和代による自己啓発の勧めであった。
これらの言説流行の背景にあったのは、今なお根強い「女の幸福神話(=結局いい相手との結婚が一番)」であり、景気低迷によって安定した稼ぎのある若年男性が減産したことであり、そして何と言っても女性たちの、専業主婦志向再燃に代表される、就業や将来への不安増大であった。
ただいずれの言説も、現状の結婚および家族関連行動を転覆させる方向へは至らなかった。著者たちは、読者諸氏が自らの依って立つ基盤を見極め、人生を最適化する方向を建設的に諭すのみ。
思うに、彼らはみな社会の中でアッパー層に属し、そしてある程度、常識人であった。だが12年、まったく異質なダーク・カオス系の犯罪方面から、2発の砲弾が女子界に投げ込まれた。
木嶋佳苗、驚愕の「常識外れ」
その巨大な1弾目が、表題の「毒婦」木嶋佳苗被告。2弾目は、先日逮捕された菊地直子指名手配犯である。菊地に関しては、また別の機会に言及したい。今回の主役は、「平成の毒婦」こと木嶋佳苗被告である。
あえて説明するまでもないだろう。「首都圏連続不審死事件」容疑者として12年4月にさいたま地方裁判所で死刑判決が下った例の女。複数の男性から大金を貢がせ、その総額はなんと1億円以上という。さらに周囲では、少なくとも起訴されただけで3人の男性が不審死を遂げている。
だが、何と言っても世間の耳目を引いたのは、その「犯罪」スケールとはあまりにも不釣り合いな木嶋被告の容姿であった。ブス、デブ。彼女を記述するにあたって、何度そんな形容詞が飛び交っただろう。年齢も37歳と若くもなく、また見かけも年相応。多くの女性が、「不美人のおばさん」がこれほどまでに男たちから金を引っ張ったことに驚愕を覚えただろう。
もっとも、私たちの美の基準は、そもそもメディア形態化していることにも注意が必要である。メディアは一対不特定多数の構図をもつ。そこには、誰もがある程度納得する水準をクリアした美しい容姿が踊っている。それゆえ女性たちは、「誰もがある程度評価してくれる万人向けの美」を獲得しようと、美容にダイエットに必死である。だが恋愛とは一対多ではなく、一対一なのである。実のところ「一般的な美の指標」はそれほど意味をもたない。大切なのは、自分の土俵に相手を引き入れること。木嶋はこの点を本能的に知っていたのだろう。
だが結論から言えば、木嶋は確かに「常識外れ」だが、同時にひどく凡庸である。彼女の手記は、凡庸さの結晶でもあった。引用される「知的な」単語や、「上品な」言葉遣いの背景に、通常存在するはずの言葉の重力がともなっていない。どこかで聞いたことのあるセリフを、ひたすら切り張りしたような印象である。
あえて言えば、彼女はおそらく言葉そのものの美や価値を尊重したことのない人だろう。
さらに私見では、木嶋被告は女性特有の「言葉の挫折」経験を経ていない。女性はたいてい程度の差こそあれ、成長し「社会」に近づくにつれ、「自分の言葉が公的な領域で通用しなくなる」経験をもつ。それは、女性個人としてだけではない。法や経済などいわゆる「男社会」を構築する、相対的に交換価値の高い言葉へのアクセス権が乏しい点も指摘できる。この挫折を経て、女性は自分自身の幸福よりも男性を通じた社会参加と、それによる幸福獲得(=女の幸せ)に向け人生の重心を移して行くのである。
「女の幸せ」と「私の幸せ」の違い
けれども木嶋は「女の幸せ」など最初から相手にしてはいなかった。それゆえ逆説的に、「最強/最凶の女」となった。それが最も表れているのは「食」への執着である。1990年代の女性の「病理」を示す最大の被害者・東電OLは拒食症を患っていたが、木嶋は自分のために美食を追求した。
女性にとって、ダイエットと勉強はよく似ている。前者は体重、後者は偏差値と、努力の結果が数値に反映される。そして、それらは社会的価値を有する。痩せた美しい容姿と高い学歴。この2つは、女性が社会の中で戦うために必要な武器である。だが皮肉なことに、男に好まれる美しい容姿や、社会の中で高い位置を約束するはずの学歴獲得も、結局のところ「男の決めた社会のルール」を内面化する行為でもある。東電OLは、日本の高学歴美人の葛藤の終局形態であった。
木嶋佳苗が選んだ主戦場
一方木嶋は、「私の幸せ」にしか興味がなかった。だからこそ、自身の学歴も、不明瞭な職歴も、彼女のプライドを決して損なうことはなかったのだろう。自分の主戦場がそこにないことを、子どものころから知っていたのかもしれない。ただ、あらゆる社会的資源を相手にしない木嶋に決定的に欠落していたもの、それが経済力である。消費社会への獰猛(どうもう)なまでの耽溺(たんでき)は、多くの金を要するものであった。むろん、彼女のアイデンティティー(セレブな私)もそこに源泉をもつ。それゆえ、彼女は自らの価値に見合った量の金を、しごく当然の対価として男に要求した。交換されるのは、分かりやすい「癒やし」である。「料理上手」「聞き上手」「家庭的」……これらを被害者の男たちは絶賛した。ある被害者は、木嶋が何も言わなくてもお茶を出してくれるのに感動した、と言う。
怨念炸裂!社会の男ルールへの逆襲
木嶋は婚活サイトで相手の男性に「40代以上希望」を標榜していたが、これは実に的を射た作戦である。心理学者の小倉千加子は、結婚を「金と顔の交換」と論じたが、多くの中高年男性にとって、結婚とは「金と安らぎの交換」である。これは、戦後の民主化と核家族化により作られたイデオロギーを背景にしている。戦前は家父長制支配のもと「娘のように夫に従順な妻」が賞揚されたが、戦後は「母のように夫を癒やし甘えさせる妻」が称賛された。これは、制度上の男尊女卑撤廃を謳(うた)いつつ、女性に「自主的に」男性に奉仕し無償のケア労働に従事してもらうため、必要なイデオロギーであった。高度成長期の男性は、実にこの「癒やし系イデオロギー」によって支えられていた、ともいえる。したがって、昭和的価値観にそれほど共鳴しない30代より下の男性には、あまり「通用しない」。
翻って見れば、この国の男たちは今なお高所得男性狙いの「セレブ妻志望者」にも、「女性の社会進出」にも、一様に厳しい。だが本当に恐ろしいのは、それら社会的意味や価値を相手にしない女であろう。それは、男が作ったこの社会のルールを、「相手にしなければ、どうということはない!」と一蹴する女だからだ。逆襲の癒やし系・木嶋佳苗。それは昭和の怨念の一端であり、「癒やし系イデオロギー」最後の仇花(あだばな)であった。もちろんこの出会いは、昭和的価値観に縛られた男性にも不幸な結果をもたらした。願わくばこの事件を乗り越え、女性たちがみな、いや男性もまた、旧来の恋愛や結婚イデオロギーからも自由な「私の幸福」追求を目指す時代が訪れますように。
著者情報
詩人/社会学者
水無田気流
みなした きりう
1970年生まれ。東京工業大学世界文明センター・フェロー。早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得満期退学。2006年、第1詩集『音速平和』(思潮社)で第11回中原中也賞受賞。08年、第2詩集『Z境(ぜっきょう)』(思潮社)で第49回晩翠賞受賞。評論に、ロスジェネ・団塊ジュニア的自分史にツッコミを入れた『黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望』(2008年 光文社新書)、ニッポン女子の無頼化現象を女子カルチャーの分析を通じて読み解く『無頼化する女たち』(2009年 洋泉社新書y)、来る時代の「幸福のあり方」を探る『平成幸福論ノート』(2011年 光文社新書)などがある。