座談会 「1995」とは何だったのか/①イントロダクション
(構成・文/加藤直樹)
1995年を再検証すべく集まっていただいたのは、イミダスで連載を持つ4人の論客。
医師で『常識を疑え!』を連載する香山リカ氏、政治学者で『シネマでみる、この世界』を連載する吉田徹氏、作家でエッセイ『生きづらい女子たちへ』および『“普通の日本人”のあいまいな不安』を連載する雨宮処凛氏、文芸批評家で『保守思想入門』を連載する浜崎洋介氏だ。
話題は当時の生きづらさから、リベラルの盛衰にまで及んで……。多岐にわたるテーマから「1995」の実相を立体的に浮かび上がらせる。(収録日2026年4月4日)

左から浜崎洋介氏、雨宮処凛氏、香山リカ氏、吉田徹氏
1995年当時を振り返る
でも、実際に親の仕事で、97年に東京の巣鴨に引っ越したときはびっくりしました。東京なのに、ニュータウンよりも古い「街の味」があったんです。システムの「隙間」が残っていて、「地元」の雰囲気も残っている。それで、随分と解放されたのを覚えています。
くわえて、東京にはまだバブルの残り香があって、池袋には「アール・ヴィヴァン」なんていう洋書店があって、学校帰りに、毎日そこに通って画集なんかを見てました。
ただ、都立北園高校という異常に自由な高校に通っていたせいもあって、次第に、そのポストモダン的な「浮かれ騒ぎ」や「規範のなさ」に疑問を感じるようにもなっていきました。要するに、バブルの崩壊と冷戦構造の崩壊の後に現れた荒々しい「現実」と、それ以前のユーホリックな「言説」とのあいだにズレを感じるようになっていったんでしょう。
その後、大学に入った私は、一種の「規範」を求めて『批評空間』に傾倒し、大学を出てからは、その編集責任者である柄谷行人が立ち上げた左翼運動NAMに近づいていくことになります。が、それはすぐに失敗して、「大人に騙された」という思いと共に(笑)、改めて自分の足元から思想を立ち上げねばならないという焦燥のなか、私は、東京工業大学(現・東京科学大学)で教えていた文芸批評家の井口時男の下で、小林秀雄(修士課程)と、福田恆存(博士課程)について研究をすることになります。
その意味で言えば、95年というのは、「戦後的なるもの」が崩壊していく兆候を示す年であると同時に、私が「保守思想」に出会い直していく最初の切っ掛けを作った年だったように思います。
でも、予備校に1年通って受験して、落ちたんですね。二浪はできないから、19歳でバイトを始めました。それが94年。だから、95年にはフリーター2年目でした。
そのころはちょうど、バブル崩壊の影響が広がっていく時期でした。バイト先には、親がリストラされて学生を続けられなくなったといった同世代がたくさんいた。バイトの時給もじわじわ下がっていった。でも、当時のメディアはフリーターは好きでやってるものだといった話をしていました。まだ「非正規雇用」という言葉もなかった。
高校時代までは、「頑張れば報われる」という戦後日本の神話を信じていました。中学時時代は受験戦争がつくるものすごい競争のなかでいじめのターゲットになり、リストカットをするようにもなった。そこに今度はバブル崩壊で、ド貧乏に。はしごを外されたような被害者意識が生まれました。
そして95年、1月に阪神淡路大震災があって、3月にはオウム真理教の地下鉄サリン事件が起きた。大地震で戦後の繁栄が一夜で崩壊し、サリン事件でそれを支えていた価値観まで崩壊したように見えました。これからは政治や社会のことを考えなければいけないんじゃないかと思い始めた。
その翌年くらいに、右翼の鈴木邦男や見沢知廉と出会いました。リストカットをしてるという話をしたら、見沢さんが「そういう奴は革命家になるしかない」と言って、左翼や右翼の集会に連れて行ってくれた。左翼の集会はチンプンカンプンだったのだけど、右翼の集会に行ったら、「お前たちが生きづらいのはアメリカと戦後民主主義のせいだ。お前たちは全然悪くない」と言ってくれた。初めて大人に免責されたことに感動して97年、その右翼団体に入って、2年間、そこで活動しました。
95年って、小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で薬害エイズ問題を取り上げていたころで、大学生の運動が盛り上がっていたんですよね。彼らが厚生省(現・厚生労働省)を人間の鎖で囲んだりするのを、まぶしい思いで見ていました。でもこっちは底辺フリーターで生活もカツカツで、とてもそれに参加するという回路がなかったんですよね。なんとなく苦々しくも感じました。
だからその翌年に、小林よしのりが彼らを『脱正義論』で「純粋まっすぐ君」と言って否定するようになると、少し溜飲が下がる思いがしました。そして98年に『戦争論』が出たころには、私はもう右翼団体にいて、そこで彼とリンクしていたような気がします。
私にとって95年前後は、いちばん迷ってて、がむしゃらにもがいていた時期でしたね。
帰国して入った高校は、新設された都立国際高校というところで、その二期生です。3割が帰国子女で、1割が在京子女。その高校のバイブルが、ハーバード大学教授で駐日アメリカ大使も務めたエドウィン・ライシャワーの『真の国際化とは』というエッセイ集でした。冷戦が終わり、91年に湾岸戦争があって、PKO協力法ができて、日本が世界のなかでどのように存在感を発揮していくべきかといったことが真剣に議論されている時期に当たりました。
93年に慶應義塾大学に入学したころは、山手線の田町にもあるウォーターフロントをまだワンレン、ボディコンのお姉さんが歩いていましたが、卒業するころには就職氷河期。なんかこれまでの前提が大きく違った時代になったと感じたのを記憶しています。
そのころは、いろんな新しい雑誌が出てくる時代でした。『マルコポーロ』とか『RONZA』、『BART』とか、他にも週刊誌や月刊誌が次々創刊されていた。そういう雑誌類を片っ端から読んでいましたが、その行為を通じて、自分なりに日本を理解しようとしていたのではないかと思います。
そんなプロセスの際に出会ったのが、思想家の西部邁でした。当時すでにテレビなどにも出ていた西部さんが「発言者塾」というのを始める、10万円払えば誰でも入れるらしいと聞いて、友達と一緒に週に一度、通うようになりました。94年か、95年ごろだと思います。
西部さんの思想を保守思想と呼べるのか、何と呼ぶのかは議論があると思いますが、情報の渦のなかで価値をちゃんと提示してくれた。それを当時のぼくは、賛否とは別に、座標軸として求めていたのでしょう。
ぼくにとっての90年代は、いろんな知識を吸収して、日本社会を自分なりに理解していく、そういう時代でした。
著者情報
作家、活動家
雨宮処凛
あまみや かりん
1975年、北海道生まれ。反貧困ネットワーク世話人。バンギャ、フリーター、右翼活動家などを経て2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版/ちくま文庫)でデビュー。2006年からは貧困問題に取り組み、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(2007年、太田出版/ちくま文庫)は日本ジャーナリスト会議のJCJ賞を受賞。著書に『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社、2023年)、『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書、2024年)など多数。
医師
香山リカ
かやま りか
1960年北海道生まれ。東京医科大学卒業。学生時代より雑誌等に寄稿。その後、精神科医として臨床に携わりながら、一般読者向けの著作活動を行う。著書に『女は男のどこを見抜くべきか』(集英社)、『執着 生きづらさの正体』(集英社クリエイティブ)、『「いじめ」や「差別」をなくすためにできること』(ちくまプリマー新書)、『61歳で大学教授やめて、北海道で「へき地のお医者さん」はじめました』(集英社クリエイティブ)など多数。
文芸批評家
浜崎洋介
はまさき ようすけ
1978年埼玉生まれ。雑誌『表現者クライテリオン』編集委員。京都大学大学院特定准教授。2022年『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)で、第31回山本七平賞奨励賞受賞。そのほかの著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉イロニー・演技・言葉』(新曜社)、『反戦後論』(文藝春秋)、『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(NHK出版)、『ぼんやりとした不安の近代日本』『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』『日本人の「作法」 その高貴さと卑小さについて』(いずれもビジネス社)がある。
同志社大学教授
吉田徹
よしだ とおる
1975年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。専門は比較政治学、ヨーロッパ政治。著書に『ミッテラン社会党の転換』(2008年、法政大学出版局)、『二大政党制批判論』(2009年、光文社新書)、『ポピュリズムを考える』(2011年、NHK出版)、『感情の政治学』(2014年、講談社)、『「野党」論』(2016年、ちくま新書)、『アフター・リベラル』(2020年、講談社現代新書)などがある。