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相模原事件から7年の日、橋田壽賀子氏の『安楽死で死なせて下さい』問題を考えた

雨宮処凛(作家、活動家)

 今年(2023年)7月26日は、相模原障害者施設殺傷事件から7年という日だった。

 元職員の植松聖(さとし)により、利用者19人が寝込みを襲われ殺害されるという凄惨な事件。しかも逮捕された植松は、事件前、「障害者は不幸を作ることしかできない」などと書いた手紙を衆議院議長に送ってもいた。

 事件から3年6か月後に始まった裁判を、私は傍聴し続けた。裁判中、横浜拘置支所で植松にも面会した。しかし、植松は法廷でさえ自身の起こした事件を正当化するような発言を繰り返し、裁判は結審。植松は現在、東京拘置所で死刑執行を待つ身である。

 そんな事件から7年の日、朝日新聞に掲載された事件の遺族の記事が注目を集めた(「殺害された障害者の息子、安堵の思いから7年 本名明かした母の思い」朝日新聞、2023年7月26日)。

 49歳の長男が殺された女性の記事だ。自閉症と診断されていた長男は、小学生の頃からいじめに遭い、学校や地域でもトラブルが続いていたという。成人してからは「なんでいじめられるんだ」と母親に暴力を振るうようになり、子育ては一層過酷に。耐えきれずに女性は長男をやまゆり園へ入所させたという。1996年、長男は29歳になっていた。

「困り果て、自信をなくし、家に一緒にいることが嫌になってしまった」

 以降、顔を合わせるのは月に一度の自宅での面会だけ。そんな日々が20年続いた果てに起きたのがあの事件だった。

 事件の知らせを聞いて女性の頭をよぎったのは、「ああ、これでもう世間に頭を下げなくて済む」という安堵だったという。子どもの頃から長男がトラブルを起こすたびに、頭を下げ続けてきたからだ。

 その言葉を読んで、女性の深い苦悩と葛藤に圧倒される思いがした。

 同時に思い出したのは、裁判での遺族、被害者家族たちの言葉だ。法廷では、遺族や被害者家族の痛切な思いが語られ、また読み上げられた。

「いつも笑顔を見せてくれていた」「(遺体と対面し)『今までありがとう。生まれてきてくれて幸せだったよ』と話しかけた」(43歳男性の母)

「あの日から心にぽっかり穴があいたまま。一緒に過ごした日々は本当に幸せだった。今後、どう生活していいのかわからない」「施設に入所しなければ、こんなことにはならなかったという後悔しかなかった。手のかかる場面はいっぱいあったが、いつまでも成長を見守ることができて幸せだった」(41歳男性の母)

「一緒に過ごす時間をなくしてしまった。娘なりに一生懸命生きていた。(植松被告に)娘の人生を終わらせる権利はない」(35歳女性の父)

 死を悼む声がある一方で、遺族、被害者家族の中には、冷淡な語り口のものも見られた。

 例えば第4回公判では遺族や被害者家族への聞き取り調書が読み上げられたのだが、植松に対して「処罰感情は具体的にはない」と語る遺族の言葉が紹介されている。この遺族は、「3年くらい面会には行っていなかった」ことを語っている。

 また、植松に刺されて怪我をした20代被害者の父は、「事件で怪我をしても、会わずに遠くから見守った」と述べている。子どもの世話をするのに限界を感じ、19歳の頃、入所させたということだった。面会に行くと帰宅できると思い、帰れないとわかると興奮するのでそれからは面会していないという。本人を苦しませてしまうから敢えて会わないという選択は理解できるものだが、あの事件で子どもが怪我をしても会わなかった背景には、相当の苦悩や葛藤があったものと思われる。

 その他にも、「面会に行くと、(やまゆり園に)入所させたことを怒った」「入所には強い抵抗があり、そのために拘束もあった。おしっこを我慢して職員や母を困らせた。3日間しないこともあった。家に帰りたいという弟のささやかな抵抗だった」という声もあった。

 もちろん、家族をやまゆり園に入れた人々の選択にどうこう言うつもりなど毛頭ない。が、冷淡に見えようが悲しみに暮れていようが、両者に共通するのは障害がある子どものケアが長年、家族に丸投げされてきたという事実である。

 津久井やまゆり園ができたのは、東京オリンピックがあった1964年。重度障害者を家族でみるしかなかった時代、入所施設ができたことによって「救われた」家族は大勢いるだろう。実際、多くの家族が調書で施設への感謝を口にしている。また、裁判後、やまゆり園について「ああいう“檻”に入れてもらって、家族はみんな助かったんだから」と入所者の親が口にするのも耳にした。

 しかし、やまゆり園ができて半世紀の間には障害者運動が本格化し、脱施設化、地域移行が進んできたのも事実だ。事件が起きる3カ月前の2016年4月からは障害者差別解消法も施行されている。

 が、やまゆり園は時代の流れに取り残されたかのように山奥にじっと佇み続けた。そうして7年前、あの事件が起きた。

「障害者は不幸を作ることしかできない」と主張した植松は、法廷でも「安楽死」を唱え続けた。いわく、意思疎通のできない人を安楽死させるべきという荒唐無稽な主張だ。

 そんな安楽死について、植松は獄中である人の本を引き合いに出して正当化している。

 それは橋田壽賀子氏の『安楽死で死なせて下さい』(文藝春秋、2017年)。いわずと知れた人気脚本家である橋田氏がこの本を出したのは17年で92歳の頃。帯には「人に迷惑をかける前に、死に方とその時期くらい自分で選びたい」という言葉が躍る。そんな橋田氏は安楽死することなく21年に死去したが、つい最近、橋田氏が安楽死について語っている対談を読み、多くのことを考えさせられた。

 対談相手は上野千鶴子氏。掲載されているのは『最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく』(中央公論新社、2022年6月)で、この本には上野氏とさまざまな「おひとりさま」の対談が収録されているのだが、そのうちの一人が橋田氏。ここでもやはり橋田氏は安楽死への期待を語っている。

「人に勧めるつもりはありませんでした。でも個人的には、90歳を超えたら安楽死を選択できるような法律がないかと夢想します」

 では、橋田氏はなぜ安楽死について考えるようになったのか。上野氏に聞かれて語った言葉に驚愕した。

「仕事が減ったから。仕事がなくなったら、生きていてもしょうがないですよ」

 対談当時、橋田氏は94歳。その年まで現役で、第一線で活躍してきたこと自体が奇跡なのに、まだ仕事を求めているのである。そしてどうやら仕事がない自分には「価値がない」くらいまで思い詰めているようなのである。

 なんだか目の前が暗くなる気がした。仕事がない、減ったくらいでそこまで思うなら、世の中、安楽死予備軍だらけではないか。私だってその一人だ。橋田氏は自分に非常に厳しい人なのだと思うが、その厳しさは、他者に対しては時に意図せずとも刃になり得てしまう。

 一方で、この社会が高齢者に「お荷物」にならないことを求めているのも厳然たる事実だ。そんな中、橋田氏はその無理ゲーを本当に必死で攻略してきたのだと思う。それだけではない。「こうあらねば」という、自らに対する理想像を非常に高く掲げてきたのだろう。

 例えば対談で橋田氏は、「病気になって脚が動かなくなり、人の世話にならなくてはいけなくなったら、やっぱり生きていたくない」と語る。車いすにも抵抗があるようで、「とにかく、車いすなんてイヤだわ。自分の脚で歩けないなんて」とも語る。

 しかし、対談の中で、橋田氏が好きなクルーズ船には車いすの人もいたこと、船の中でのリハビリで歩けるようになった乗客もいたことを思い出す。上野氏に「ほら、車いすでもクルーズを楽しめそうじゃないですか」と言われると、「じゃあ車いすはよしとして、トイレの介助は絶対にイヤ」と言う。

 とにかく自立が一番で、人の世話になりたくなくて、下の世話なんて真っ平御免で仕事が減ったりなくなったりしたら生きる意味などない――。この価値観は別に橋田氏だけでなく、特に昭和の男性が強く内面化しているものではないだろうか。

 しかし、誰もがいつかは老いて、程度の差はあれ他人の世話になる時がくるのだ。そのことに、90代でも抵抗する橋田氏。

 一方、大正14年生まれの橋田氏の中には、確実にその世代の「女」も存在する。

著者情報

作家、活動家

雨宮処凛

あまみや かりん

1975年、北海道生まれ。作家、活動家。反貧困ネットワーク世話人。バンギャル、右翼活動家を経て、2000年に自伝的エッセー『生き地獄天国』でデビュー。自身の経験から、若者の生きづらさについて著作を発表する傍ら、イラクや北朝鮮へ渡航を重ねる。その後、格差や貧困問題について取材、執筆、運動を続ける。『生きさせろ! 難民化する若者たち』でJCJ賞受賞。著書に『一億総貧困時代』『「女子」という呪い』など多数。

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