【弟子が語る】ノーベル賞作家ガルシア゠マルケスに学ぶジャーナリズム
ネルソン・フレディ・パディージャ(ジャーナリスト、作家)
(構成・文/工藤律子)
『百年の孤独』などで知られるノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア゠マルケスの指導のもと、彼が率いた雑誌『カンビオ』の記者を務めたネルソン・フレディ・パディージャ(55)。このコロンビアの著名なジャーナリストは、長年にわたり、コロンビア内戦を取材し、国内外で数々の賞を受賞した。SNS時代の今、よりよい記事を書くにはどうしたらよいのか――。師匠ガルシア゠マルケスとの対話から学んだジャーナリズムの原点を語った。

自身が所属する現地有力紙「エル・エスペクタドール」編集部で、同紙の記者でもあったG・ガルシア゠マルケスとの交流を語るネルソン・フレディ・パディージャ=撮影:篠田有史
ガルシア゠マルケスとの出会い
1991年、「エル・エスペクタドール(El Espectador)」紙(1887年に創刊された、コロンビアで最も古い日刊新聞の一つ)に来たとき、最初に出会った記事が、ガルシア゠マルケスが1954年の内戦について書いたものでした。彼の名はもちろん知っていましたが、それほど興味を持っていませんでした。ジャーナリズムに対してもそうです。
もともと絵が好きで、国立大学でグラフィックアートを学びたかったのですが、入れる枠がなかったので、まず働くことにしました。あるとき、メディアに関するアンケート調査の仕事をしていて、自分は文章を書くのも得意だと気づき、大学のジャーナリズム学科に入ったのです。しかし、理論の授業ばかりで退屈し、やめようかと考えていたところ、ジャーナリストのために取材費が提供されるコンクールがあると知り、応募することに。そこで選ばれて、「暴力の現場」というテーマでの取材を依頼されました。それで、当時、首都ボゴタのあちらこちらで麻薬王パブロ・エスコバルが起こしていた爆弾事件を、取材しました。その経験から、「母国を理解するには、ジャーナリズムが重要だ」と思うようになったのです。
学生として取材・執筆を続けるうちに、記事が評価され、エル・エスペクタドールに入ることに。そこでガルシア゠マルケスの記事を読み、彼を知る人たちからも話を聞いて、「ジャーナリズムこそが、より良い書き手になるために最も役立つ手段」だと気づきました。

G・ガルシア゠マルケスが、1955年にエル・エスペクタドールに連載した、コロンビア海軍駆逐艦沈没事故の唯一の生き残りを取材した記事。当時、軍事独裁政権が脅迫により隠蔽しようとした海軍の違法行為を暴いた=撮影:篠田有史
1998年、ガルシア゠マルケスが雑誌『カンビオ(Cambio)』(それまで『Cambio 16』と呼ばれていた雑誌)を率いることになったとき、その記者になるよう、誘われました。そのとき、私にはスペインで修士課程を学ぶ奨学金を得る機会が与えられていたのですが、ガルシア゠マルケスと仕事をしたい一心で、雑誌『カンビオ』に入る方を選びました。
彼との最初の仕事は、電話での会話から始まりました。編集部に呼び出され、「(ガルシア゠マルケスから電話で)一つのミッションが与えられる」と、告げられたのです。受話器を取り、「お話しできて光栄です」と挨拶すると、彼は最初に、「僕は君が誰なのか、知っているよ」と言いました。新人記者たち全員の記事を読んで、それぞれの仕事ぶりをよく理解していたのです。そして、私に「君向けのテーマだ」と言いながら、コロンビアの刑務所に服役している唯一の米国人を見つけ出して取材するように、と指示しました。私はさっそく取材を始め、記事を書き、メキシコシティにいたガルシア゠マルケスにファックスで送ると、彼は訂正すべき表現や参考になるメモを書き込んで、送り返してきました。
それから6カ月後、ボゴタへ長期滞在で来たガルシア゠マルケスと、初めて対面することになります。編集部に集まった私たち若手記者は、皆、彼にどう挨拶したらいいものかと、迷っていました。感激の余り興奮していたんです。「マエストロ(先生)」と呼ぶべきか、それとも「ドン・ガブリエル」の方がいいか、と。そこへ本人が現れ、私たち一人ひとりを名前で呼んで、挨拶してくれました。そして、こう言いました。「この中に既婚者はいますか?」。誰も手を挙げないと、「よかった。これからは頻繁に夜更かしすることになるからね」と、微笑みました。
「耳を傾ける」
ボゴタにいる間、ガルシア゠マルケスは、私たち記者とともに、夜中の2時、3時まで、文章の確認作業を行っていました。そうして、より良い記事を書くためのアドバイスをくれたのです。それには、例えば、同じことを言う場合でも、文章の流れによってどの単語が最も相応しいか、どこに読点を打つべきか、といったことも含まれていました。細かい提案を、「上司」というふうではなく、「孫に語りかけるお祖父さん」のような態度で、伝えてくれたのです。
さらに印象的だったのは、編集会議への関わり方です。編集会議は、編集部の真ん中に置かれたテーブルを囲んで開かれ、編集長らが、どの記者がどんなテーマの記事を担当するかを話し合います。ガルシア゠マルケスは、いつもそこに参加していましたが、ほとんど言葉を発しませんでした。椅子に反対向きに座り、組んだ両腕を背もたれの上に乗せたまま、1時間、1時間半と、皆の話をただじっと聞いていました。その後、自分のオフィスへ戻ると、担当が決まった記者を一人ずつ順番に呼んで、次々と質問をしたのです。「その話を、どんなふうに書くつもりだい?」「誰にインタビューをしようと考えているの?」「どこを訪ねるつもり?」と。それらすべての情報を得てから、今度は記者の答えに応じたアドバイスをする。
そうしたやりとりを通して、私自身の中には、取材対象に関する新たな関心が生まれていきました。ですから私も、後輩に接するとき、ガルシア゠マルケスのアドバイスの仕方を手本にするようにしています。
私が「サン・ホセ号の沈没」(1708年にコロンビアのカルタヘナ・デ・インディアス沖で財宝を積んだスペインの船サン・ホセ号が、英国海軍の攻撃で沈没し、600人近い死者を出した事件。ガルシア゠マルケスの複数の作品でモチーフになっていることで有名)について詳しく調べることにしたのも、そんなやりとりがきっかけでした。その取材の成果が、15年ののちに(『ガレオン船サン・ホセ号とそのほかの財宝』という)本(未邦訳)になりました。
「体験」と「調査内容」のバランス
私にとって師匠=マエストロである、ガルシア゠マルケスの教えの中には、「取材する記者自身の一人称の証言」と「取材で調べた内容」、ふたつのバランスを大切にする、というものがあります。
あるとき、事前許可を得ないまま、ゲリラの支配地域へビデオカメラを手に入ったエル・エスペクタドールの記者2名が、殺害される事件が起きました。ゲリラは、記者を敵の準軍事組織のメンバーと間違えて、銃撃したのです。事件を知った私は、そんなことが起きてしまう現場の状況を理解したいと思い、取材に行きました。脅迫を受けるなど、かつてないほどの恐怖を味わいながらも取材を続けると、ガルシア゠マルケスはその記録を書くよう、指示しました。私は、取材内容をまとめて、自分では大満足の記事を(メキシコシティにいる)マエストロにファックスで送信。ところが、戻ってきたコメントには、こう書かれていました。
「素晴らしい取材調査だ。しかし、これは一人称で書くべきではない。君が恐ろしい思いをしたことは、わかる。だが、もっとずっと恐ろしい思いをしているのは、現場を支配する暴力の中で日々を生きる人々、『犠牲者』たちだ。だから、この文章は三人称で書くべきだろう」
ガルシア゠マルケスは、「賢い読者は、三人称で書かれていても、示された調査内容や資料や写真から、書いた記者が現場にいたことをきちんと理解する。だから、記者はそこへ行って怖い思いをしたということをわざわざ書く必要はない」と、言いたかったのです。そうした不安や恐怖は、現地でサバイバルを強いられている人々、家族が殺された人々が語ってこそ、意味のあることだと。私は、その記事を三人称で書き直して、再提出しました。
「シンプルで、明快かつ説得力のある語り」
それが、私が今も追求し続けているものです。現実を、「個人的な視点」と「(取材調査の)緻密さ」のバランスが取れた形で語ることは、なかなか難しい。ですが、現実を記録する者としてはやるべきことであり、それこそが、私の好きな文章の姿です。

エル・エスペクタドールの編集部。中央の社名看板の下に、会議用のテーブルがある=撮影:篠田有史
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著者情報
ジャーナリスト、作家
ネルソン・フレディ・パディージャ
ねるそん・ふれでぃ・ぱでぃーじゃ/Nelson Fredy Padilla
1968年、コロンビア生まれ。ラ・サバナ大学でジャーナリズムを学び、コロンビア国立大学で文学の修士号を取得。1996年からアルゼンチン最大の日刊紙「クラリン」の特派員、1998年からガブリエル・ガルシア=マルケスが主宰する雑誌「カンビオ」の記者、2008年からコロンビアの全国紙「エル・エスペクタドール」の編集者などを歴任。現在、同紙日曜版編集長を務めるほか、コロンビア国立大学などの大学院で「ジャーナリズムと文学」を教えている。長年コロンビア内戦を取材した功績で、1995年に米州新聞協会(IAPA)マイアミ・ヘラルド賞、2000年にオルテガ・イ・ガセット賞を受賞。そのほか、ドン・キホーテ賞、ミゲル・エルナンデス賞、ボゴタジャーナリスト協会賞など、国内外で数多くのジャーナリズム賞を受賞。