「自粛警察」とファシズム~ドイツとの比較から考える
田野大輔(甲南大学文学部教授)
コロナ感染拡大を防止するために個人の権利が制限されている状況は、日本もドイツも同じである。しかしながら、権利制限の方法は日独で大きく異なっている。ドイツでは、政府が外出制限などのかなり踏み込んだ権利制限を、民主主義の原理に反するものと明確に説明した上で実施している。メルケル首相は外出制限導入の際の演説で、旧東ドイツ出身である自分には基本的権利が制限される意味が身にしみてわかっていると強調した。権利侵害を自覚した上で、それは危機を乗り越えるための一時的措置だとして国民に理解をもとめ、規制と同時に補償をセットにしている。
ドイツではこのように強力な権利制限を行うことで感染拡大を防ごうとしているのに対して、日本ではむしろ権利制限を控えつつ緩やかに感染拡大を防ぐという、いわば「お願い型」の対応が基本となっている。そのためもあって、日本の政府は権利侵害の自覚が曖昧で、個々人の自助努力と相互監視に依拠して社会を統制しようとしているように見える。もちろん、ドイツの方が感染者数も死者数も圧倒的に多いので、日本のやり方で感染拡大を抑えることができればそれに越したことはないのだが、やはり「お願い型」の対応には副作用もあって、個々人に大きな負担を強いることで人々の不安や不満を鬱積させ、過激なバッシングを促してしまうという弊害は無視できない。
それに加えて、日本のやり方でうまく危機に対応できているかというと、必ずしもそうとはいえない。政府の対応を見ていると、権利制限に伴う財政支出や経済活動への影響を小さくしようという目的の方が前面に出ていて、不十分な検査体制・医療体制などからも、感染拡大の防止という最優先の課題が見失われているように思われる。もっとも、日本でもドイツのような強力な権利制限を行うべきかといえば、それには慎重な姿勢で臨むべきだろう。個人間の同調圧力と相互監視の強い日本社会の特徴を維持したまま、さらに政府の強権発動を認めることになれば、そこに出現するのはおそらく、戦時中の言論弾圧も顔負けの恐るべきディストピアに違いない。
「自粛警察」の発生を防ぐには
「自粛警察」のような動きをもたらした最大の原因は、政府の「自粛要請」にある。ともかく自粛しろというだけの曖昧な要請は、いたずらに人々の不安や不満をあおり、従わない人への他罰行動に大義名分を与えてしまう。さらにまた、そうした個々人の自己責任に頼った対応は、「感染したのは本人の責任」「そういう行動をした人が悪い」という見方を強めることになる。それが結果として人々の他罰感情を増幅させ、バッシングの動きを活発化させていることは明らかだ。
ただし、これは政府の対応だけが問題なのではなく、メディアの報道姿勢にも大きな責任がある。日本の報道では、たとえば大学生が海外旅行後に懇親会に出席して感染が広がったというケースが集中的に取り上げられるなど、個人に感染の責任を押し付けようとする見方が目立つ。これに対して、ドイツでは個人の行動が問題視されることはない。メディアも連日、専門機関の情報に依拠しつつ、1人の感染者が二次感染させた平均値(実効再生産数)の変動など、社会全体の感染状況を伝えている。世論の成熟度にもかかわる問題だが、少なくとも「社会の公器」たるメディアが安易な自己責任論に与して、個人へのバッシングに加担するようなことは厳に慎まなければならない。
「自粛警察」の発生を防ぐためには、政府はこれなら安心して仕事を休めると誰もが思えるような明確な対策を打ち出す必要があるし、市民の側も誰かが自粛していないからといって私的制裁をけしかけるような動きに流されないよう気を付けないといけない。日本では一部の自治体で休業要請に応じない店の名前を公表する動きが出てきているが、これは非常に危険な事態といえよう。政治家がそうした動きをあおっていないか、メディアもそれに迎合していないか、今後も充分な警戒が必要である。
著者情報
甲南大学文学部教授
田野大輔
たの だいすけ
1970年、東京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程(社会学専攻)研究指導認定退学。京都大学博士(文学)。2012年から現職。専門は、歴史社会学、ドイツ現代史。著書に、『魅惑する帝国――政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年)、『愛と欲望のナチズム』(講談社、2012年)、『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』(大月書店、2020年)がある。