国際政治と日本外交の役割~ミャンマー危機の行方②
中西嘉宏(京都大学東南アジア地域研究所准教授)
2月の軍事クーデター以降、ミャンマー情勢は悪化の一途をたどっています。
国際社会は強硬姿勢を続けるミャンマー軍に対し、有効な手を打てるのか? 中国・ロシアの影響力は? 日本が果たすべき役割とは? 中西嘉宏・京都大学准教授に解説していただきました。
【クーデター後のミャンマー国内情勢を解説した「暴力による統治は続くのか~ミャンマー危機の行方」(中西嘉宏)もあわせてご覧ください】

インドネシアのジャカルタで開かれたASEAN指導者会議(2021年4月24日)
クーデター後の混迷と国際社会
2021年2月1日にミャンマーでクーデターが勃発した。このクーデターが2011年の民政移管から続いていた、この国の民主化と経済発展の好循環を断ち切った。未明、軍がアウンサンスーチー国家顧問、ウィンミン大統領ら政権幹部を拘束する。その数時間後には非常事態宣言を発令して、国家の全権を国軍最高司令官であるミンアウンフライン将軍が握った。この間、死傷者は一人も出なかった。いわゆる無血クーデターである。
ところが、その後の展開は軍の想定を超えていた。市民による反軍デモが全国に広がり、公務員を中心に、職場を放棄する市民的不服従運動(CDM)への参加者が大量に出たのである。クーデターから1カ月間は、国家も経済も機能不全に陥った。クーデターは失敗したのではないか。そういう観測が出始めた頃、軍は退くどころか、強硬姿勢に転じた。
軍と警察からなる部隊はデモ隊に対し、実弾や殺傷能力の高い武器を用い、また、CDM参加者に対しては解雇、逮捕、指名手配といった強引な手段で抑えつけた。2月から4月上旬にかけて、700人を超える犠牲者が発生。6月半ばまでの犠牲者は900人近くに及ぶ。拘束中の人々は5000人を超えた。
クーデター発生当初は様子見だった各国政府や国際機関も、軍による弾圧の拡大に反対する声明をいくつも発出し、いまだに軍のクーデターを正式に承認する国はひとつも現れていない。制裁を科す国々もある。こう書くと、ミャンマー軍は八方塞がりで、遅かれ早かれ自滅するか、国際的な孤立によって行き詰まってしまうように思えるだろう。だが、恐らくそうはならない。なぜか。
ひとつめの理由は、ミャンマー軍の性格である。独立自尊の意識が強く、ナショナリスト集団であるミャンマー軍は、外国からの干渉や介入を極端に嫌う。そのため、国際社会が軍の行動に影響力を与えることには限界がある。
次に、ミャンマーの危機に歯止めをかけるべきだという問題意識が多くの国で共有される一方で、歯止めをかけるための手段について、各国の間で合意ができないことが挙げられるだろう。各国の利害関係が噛み合わず、国際的な協調行動が生まれていないのである。
自ら孤立を選ぶ外交
ミャンマー外交は非同盟中立主義に根ざしている。非同盟中立主義自体は、冷戦期に米国あるいはソビエト連邦、どちらの陣営にも属さない国々(非同盟諸国)の外交政策の思想として確立されたものである。非同盟諸国間で結ばれた代表的な国交原則として、1954年に中国とインドとの間で合意された平和五原則がある。領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存、の5つからなる外交原則のことだ。ミャンマー政府も非同盟中立主義を掲げ、現在も平和五原則を外交方針としている。
ただ、非同盟中立主義を掲げる国々のなかでも、ミャンマーの外交政策は極めて閉鎖的かつ内向きであり、独特だといえる。1962年のクーデターで政権を掌握したネーウィン将軍(当時の国軍最高司令官)は、冷戦下における米ソ双方の国際介入から国を護るために、外交関係を極端に制限した。経済的には最貧国レベルであったにもかかわらず、国外からの支援を自ら絶ち、資本を国有化し、自給自足的な経済政策へと転換する。1970年代後半になって対外援助が一部再開されてからも、鎖国と呼ばれるほど消極的な外交政策がとられた。
1988年にソウマウン将軍(当時の国軍最高司令官)が起こしたクーデターで軍の新世代が政権を握ると、それまでの閉鎖的な外交政策を修正して対外開放へと舵を切った。だが、今度は政治問題が足を引っ張る。民主化活動の指導者であるアウンサンスーチーを1989年に軟禁し、1990年の総選挙結果(民主化勢力の圧勝)を実質的に無視したため、欧米との関係は悪化。特に米国の反発は激しく、大使召還にまで踏み切った。欧米から各種の制裁を受けることになったが、軍が屈することはなかった。ミャンマーの主権に対する介入であり、国家を分裂させるための干渉だとみなす軍は、政権を手放すことはなく、軍事政権を続け、国際的な孤立の道を厭わなかったのである。
この、ミャンマーと欧米との関係悪化が同国の経済に悪影響を与えた。国外からの支援や直接投資は細り、市民生活を支える基礎的インフラの整備すら停滞した。だが、2000年代になると次第に変化が起きる。きっかけになったのは、アンダマン海(ミャンマー沿岸部を含むインド洋北東端の海域)のガス田からタイへの天然ガス輸出である。この天然ガス輸出がもたらす利益が軍事政権の財政を潤した。また、中国の台頭も軍事政権を助けたことはいうまでもあるまい。雲南省からインド洋へ抜けるルートとなるミャンマーに対し、中国は経済協力を急速に拡大させた。その結果、欧米の制裁にもかかわらず、軍事政権の財政に余裕が生まれた。2004年に首都がヤンゴンからネピドーに移転されたが、新首都建設もこうした財政的な余裕によって実現されたといわれる。
そうした政府財政改善の一方で、民間市場の発展には限界があり、市民生活の困窮は続いた。国内の就業機会に見切りをつけた国外への出稼ぎも急増し、主にタイとマレーシアには常に合法、非合法合わせて400万人ほどが労働目的で滞在していると言われた。経済発展が進む東南アジア諸国を尻目に、ミャンマー経済は停滞を余儀なくされた。こうした過去から、経済制裁が軍の行動を変える効果は限定的で、その最も大きな影響を受けるのは一般市民であるという教訓を国際社会は得ることになった。
2011年3月の民政移管がミャンマーを取り囲む国際環境を大きく変える。民政移管自体は、軍事政権下で起草された憲法を基礎とする軍中心の新体制への移行であった。だが、制裁の効果の薄さを認識し、対ミャンマー政策の転換を模索していた米国は支援に動く。さらに、新政権の大統領に就任したテインセインは、欧米からの制裁解除を目指して、国内の自由化とアウンサンスーチーとの和解を進めた。2012年には当時の米国大統領であったバラク・オバマが米大統領としてはじめてミャンマーを訪問する。ミャンマーの外交が開放路線へと転じた象徴的な出来事だったといえよう。その後、援助や国際機関による支援も本格化して、いわばミャンマーは「まともな途上国」になった。日本も支援を拡大し、ミャンマーは「アジア最後のフロンティア」として注目を集め、同国に進出する企業も増大した。2020年までに日本からの進出企業は433社に及んだ。
なぜ国際協調は行き詰まるのか
外交関係が約50年ぶりに転換してからわずか10年、アウンサンスーチー政権が成立してから5年、さらに発展の可能性が見込まれていたタイミングで今回、またしても軍によるクーデターが勃発し、ミャンマー情勢は混迷を深めている。
混迷の原因は軍にある。一方で大義は市民にあることは明らかだろう。そのため、欧米はかつての軍事政権に対して行ったように、再びミャンマー軍を制裁で追い込もうとしている。だが、協調的な圧力の動きは欧米を超えて広がっていない。多極化する世界が一枚岩になることはないのである。ミャンマーの政変に対する国際的な反応は、大きく3つに分けることができるだろう。
著者情報
京都大学東南アジア地域研究所准教授
中西嘉宏
なかにし よしひろ
1977年、兵庫県生まれ。2001年、東北大学法学部卒業。2007年、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科にて博士(地域研究)取得。日本貿易振興機構・アジア経済研究所研究員などを経て2013年より京都大学東南アジア研究所准教授を務める(17年、同大東南アジア地域研究研究所に改称)。著書『軍政ビルマの権力構造 ネー・ウィン体制下の国家と軍隊 1962-1988』(京都大学出版会、2009年)で、第26回大平正芳記念賞受賞。ほか、共著に『ミャンマー2015年総選挙 アウンサンスーチー政権はいかに誕生したのか』(アジア経済研究所、2016年)、著書に『ロヒンギャ危機ー「民族浄化」の真相』(中公新書、2021年)などがある。