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社会問題

コロナ禍だからこそ鍛えたい!「自由」と「権利」と「多様性」

想田和弘(映画作家)

 安倍晋三首相が、コロナ禍に乗じて憲法に緊急事態条項を盛り込みたがっていることは、そのことを如実に物語っている。
 彼は新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく今回の「緊急事態宣言」では強制力が伴わないため、憲法秩序や基本的人権を一時停止できる強力な条項を憲法に新設するべきだと主張しているが、とんでもないことである。
 なぜなら、もし安倍氏の念頭にあるのが「2012年自民党改憲草案」に盛り込まれた「緊急事態条項」であるなら、憲法学者の木村草太氏が指摘するように、「三権分立・地方自治・基本的人権の保障は制限され、というより、ほぼ停止され、内閣独裁という体制が出来上がる。これは、緊急事態条項というより、内閣独裁権条項と呼んだ方が正しい」(「論座」2016年3月14日)ものだからである。

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 すでに触れたように、死の恐怖に圧倒された人間は、いとも簡単に、個よりも全体を優先する「全体主義」に与するし、凶暴にもなりうる。コロナ禍が1年、2年と長引けば、世界が、日本社会が全体主義化していく危険性は高まっていくことだろう。
 私たちが大事にしてきた「自由」や「多様性」といった価値が、実のある「本物」だったのか。それとも、お題目だけの「ハリボテ」だったのか。僕はこのコロナ禍によって、そのことが厳しく試されているのだと思う。いや、ポジティブにとらえるならば、この状況はそうした価値について、本質的に考えると同時に、鍛えていくよい機会だとも言えるだろう。

「自由や多様性を守る」ということ 

 そこで「自由」や「多様性」とはなんたるかについて、あらためて考えてみよう。
 たとえば「コロナウイルスはどのように人から人へうつるのか」という基本的な情報ですら、人によって接する情報の内容は異なる。「空気感染の恐れがある」という情報に接した人と、「空気感染のリスクは実は低い」という情報に接した人では、対応法も異なってくる。いや、まったく同じ情報に接していたとしても、人によっては重く受け止め、人によっては軽く受け止めるだろう。なかには、完全に無視する人もいるかもしれない。
 なぜ人によって受け止め方が異なるのかといえば、人間はそれぞれ、生まれつき性格が異なるからだ。のみならず、異なる環境で、異なる選択を繰り返し、異なる時間を生きてきたからだ。ウイルス禍に対する受け止め方や向き合い方は、大げさに言えば、その人のこれまでの人生全体を反映しているのである。
 つまり「自由や多様性を守る」ということは、マスクをしない人も、バーベキューをする人も、同じ社会で暮らす仲間として尊重するということだ。尊重するのが心理的に難しいのなら、せめて糾弾したり排除したりしないということだ。そして自分たちの安全のためにどうしても行動を変えてもらう必要があるならば、その人の人権や生活が損なわれないよう、民主的な手続きを守りながら、理性的にお願いするということだ。
「自由や多様性を守る」ということは、口で言うよりもずっと難しく、覚悟と忍耐のいることなのである。だからこそ、「鍛える」必要もあるのだと思う。

コロナ禍は正念場。「全体主義」の誘惑に負けないために

 幸いなことに、新型コロナウイルスの致死率は比較的低く、かかったら必ず死んでしまうという病気ではない。ウイルスの流行が本当に収束するためには、ある程度の人口が感染・治癒して、社会に集団免疫がつく必要があるとも言われている。
 したがって社会としての目標は感染者をゼロにすることではなく、医療機関がパンクしないよう、感染のスピードを十分にスローダウンさせることにある。つまりある程度の「逸脱」や「不注意」や「エラー」は織り込んでいく必要があるのだ。少なくとも山梨の女性がゴルフ場に行ったからといって、直接彼女と接触があった人はともかくとして、社会全体が危機にさらされるわけではない。もっと言うと、社会は「自由」や「多様性」の一つの形態として、彼女のような行動も包摂していくしかないのである。

 くわえて、人間の「自由」や「多様性」は、社会がコロナ禍に効果的に対処していく上で、これまで以上に重要になってくる。
 僕が欧米の「ロックダウン」に批判的なのは、それが計り知れない経済的ダメージをもたらしただけでなく、一律に人々や企業から自由を取り上げる手法であったがゆえに、現場の人々が工夫や試行錯誤する余地まで奪われてしまったからである。要は、人々の多様性が持つ強みが発揮されにくいのだ。
 たとえば「飲食店の営業は一律禁止」としてしまうと、それぞれの飲食店で感染リスクを低めるための工夫や技術、アイデアが発達する機会は一律に奪われてしまう。ニューヨークに多い歩道に開かれたオープンカフェであれば、席と席の間隔を十分に開け、検温や消毒やマスクの着用を徹底するならば、十分にリスクを低減できたはずだが、ロックダウン下ではそういう工夫の余地もなくなってしまう。だからロックダウンが解けた後も、社会が正常な状態に戻るには、相当な時間がかかってしまうことだろう。

 民主社会の強みの一つは、多様な背景を持つ多様な人々が存在するがゆえに、大きな社会問題が生じた際にも多方面から無数の解決法が自由に試みられることにある。そうした解決法には、優れたものも、ダメなものもあるだろうが、ダメなものは次第に淘汰され、優れたものが採用されていく。それがイノベーションの基本的な力学だ。
 しかし社会から多様性や自由が失われてしまうと、そうした運動そのものが弱体化してしまう。コロナ禍という前代未聞の危機に立ち向かうためには、画期的なイノベーションや工夫、アイデアが何よりも求められるというのに、である。
 今回のコロナ禍は、私たちが大事にしてきた自由や権利や多様性といった価値や、デモクラシーという政治体制に、かつてないほどのプレッシャーを与えている。私たちはそのプレッシャーに白旗を掲げ、自由や権利や多様性を手放し、全体主義の誘惑に負けてはならないと思う。全体主義化が進めばイノベーションが停滞するだけでなく、コロナウイルスに関する正確な情報さえも自由に流通しなくなり、私たちはウイルスに対抗する術を失ってしまう。

 ここは正念場だ。
 繰り返しになるが、私たちはむしろ、このコロナ禍を自由や権利や多様性といった価値を鍛えていく機会とすべきではないだろうか。僕はそれが、コロナ禍を生き延びていくために、そしてコロナが去った後にデモクラシーを継続していくために、どうしても必要なことだと思っている。

 

著者情報

映画作家

想田和弘

そうだ かずひろ

1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。93年からニューヨーク在住。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』(2007)、『精神』(08)、『Peace』(10)、『演劇1』『演劇2』(12)、『選挙2』(13)、『牡蠣工場』(15)、『港町』(18)、『ザ・ビッグハウス』(18)があり、海外映画祭などで受賞多数。最新作『精神0』(20)は、第70回ベルリン国際映画祭フォーラム部門エキュメニカル審査員賞受賞、〔仮設の映画館〕にて公開中、ほか全国の映画館で順次公開。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『カメラを持て、町へ出よう』(集英社インターナショナル)、『観察する男』(ミシマ社)、『THE BIG HOUSE アメリカを撮る』(岩波書店)などが多数。

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