1995年を知るための10冊
奥 憲介(文芸批評家)
過去のある出来事を振り返ったとき、まさにそれが現在の始まりであったことに気づくことがある。その瞬間、忘れていたはずの過去が、じつは現在の内部に潜んでいたことを知る。1995年とは、まさにそういう年である。
この年を説明する方法はいくらでもある。本一冊でも足りないだろう。ポストバブル、Windows95の発売、地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災、戦後50年の村山談話、沖縄米兵少女暴行事件……歴史的事象が密集したこの年は、戦後日本の結節点と呼ばれてきた。高度経済成長、経済大国、バブル経済という物質的繁栄の終わり、東西冷戦の終結と55年体制崩壊後の不安の中で、政治・経済・社会の構造に潜んでいた歪みがいっせいに表に押し出され、同時多発的に顕在化し始めた。平和と繁栄、消費と娯楽の陰に隠されていた、戦後日本を支えてきた制度や価値観の限界が、表面化したのである。冷戦の終焉で形骸化したかに見えた保守とリベラルの対立は、「戦後」の現在化をめぐる新たな論争として再燃し、「戦後」をめぐる語りの地盤そのものが揺らぎ、誰もが自分の立っている場所の不確かさを否応なく意識させられることになった。
しかし、こうした整理だけでは、この年を遠い過去として語ることになってしまう。語る側も聞く側も、理解したつもりにはなれても、そのとき人々が感じていた不安や揺らぎ、その時代の“空気感”を現在のものとして感じることが抜け落ちてしまう。
今回紹介する10冊は、30年余り前の1995年を「終わった時代」としてではなく、当時実際に起こった出来事や事件を題材に、現在と地続きの年として読みなおすために選んだものである。
1995年、この年は私にとっても転機だった。大学を卒業し、会社に入社した年である。就職氷河期が本格化する直前で、かろうじて職を得ることができた。学生から社会人へと移る、そのあわいに立っていた。阪神淡路大震災の火災の光景は記憶に焼きつき、地下鉄サリン事件のあとには、通勤電車に乗るたびに不安がよぎった。ポケットにはいつもマスクを忍ばせ、電車の車内でビニール袋を足元に置いた乗客がいるだけで、車内の空気がわずかに張りつめる。その沈黙が妙に生々しかった。
しかし、どこか現実感がなかった。物書きになることを諦めた私はセールスの仕事に追い立てられ、週末は寝るだけという毎日だった。企業戦士として労働に身を捧げるしかないという逃れられない事実が、憂鬱で、苦しくて仕方がなかった。いまここからどう脱するか、その焦燥に時折囚われた。
街も日常も何も変わらないように見えながら、どこかそれまでとは違う空気が漂っていた。平静を装いながらも、浮足立ったもの、張り詰めたもの、壊れたもの、目を背けたくなるものが、外の世界にも自分の内部にもあった。それを当時の私は、自分の個人的な問題だと思っていた。しかし振り返ってみると、そうではなかった。後戻りできない大きな変化の中にいたのである。
変化とは、ある日突然訪れるものではない。長い時間をかけて蓄積された歪みや違和感が、臨界点を越えた瞬間に、はじめて目に見えるかたちを取る。テロも震災も、制度の腐敗も、癒えない傷痕も、荒廃もまた、その蓄積の噴出にほかならない。1995年に相次いだ出来事は、戦後半世紀の日本社会が抱え込んできた矛盾や亀裂を、一挙に露わにしたものだった。
だが、本当の変化は、事件や災厄そのものにあったわけではない。むしろそれは、人々の日常や生のあり方そのもの、精神の深部で進行していた変容のほうにこそ宿っている。街の風景は昨日と変わらない。それでも、何かが確実に変わり始めている、そうした説明しがたい感覚が、当時の社会には漂っていた。
では、1995年とは何だったのか。戦後日本が「個の解放」として掲げてきた理念は、この頃から、その限界や歪みを露呈し始めていた。自立した自由な個人というイメージは揺らぎ、主体は外部から与えられる複数の「物語」や欲望に絶えず晒される不安定なものとなっていった。自分の人生を自分で選び取っているはずなのに、なぜか自分自身の輪郭が曖昧になっていく。人々は、消費、情報、共同体、イデオロギー、他者の欲望といった外部から流れ込む無数の価値観の中で、「自分」という感覚の足場を見失い始めていた。
豊かで安全な社会であるはずの日常もまた、別の顔を見せ始める。競争と管理は強まり、閉塞感と孤立感が広がり、暴力や不安は社会の深部に沈殿していった。人々は、その裂け目の中で、苛立ちや空虚さを抱え込みながら、出口の見えない時代を手探りで生き延びようとしていた。
1995年とは、単なる災厄の年ではない。戦後日本が拠って立ってきた「個」や「現実」、そして社会を支えていた物語の揺らぎが、目に見える形で現れ始めた年だったのである。その揺らぎは、2020年代の今もまだ底をついていない。
この年を説明する方法はいくらでもある。本一冊でも足りないだろう。ポストバブル、Windows95の発売、地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災、戦後50年の村山談話、沖縄米兵少女暴行事件……歴史的事象が密集したこの年は、戦後日本の結節点と呼ばれてきた。高度経済成長、経済大国、バブル経済という物質的繁栄の終わり、東西冷戦の終結と55年体制崩壊後の不安の中で、政治・経済・社会の構造に潜んでいた歪みがいっせいに表に押し出され、同時多発的に顕在化し始めた。平和と繁栄、消費と娯楽の陰に隠されていた、戦後日本を支えてきた制度や価値観の限界が、表面化したのである。冷戦の終焉で形骸化したかに見えた保守とリベラルの対立は、「戦後」の現在化をめぐる新たな論争として再燃し、「戦後」をめぐる語りの地盤そのものが揺らぎ、誰もが自分の立っている場所の不確かさを否応なく意識させられることになった。
しかし、こうした整理だけでは、この年を遠い過去として語ることになってしまう。語る側も聞く側も、理解したつもりにはなれても、そのとき人々が感じていた不安や揺らぎ、その時代の“空気感”を現在のものとして感じることが抜け落ちてしまう。
今回紹介する10冊は、30年余り前の1995年を「終わった時代」としてではなく、当時実際に起こった出来事や事件を題材に、現在と地続きの年として読みなおすために選んだものである。
1995年、この年は私にとっても転機だった。大学を卒業し、会社に入社した年である。就職氷河期が本格化する直前で、かろうじて職を得ることができた。学生から社会人へと移る、そのあわいに立っていた。阪神淡路大震災の火災の光景は記憶に焼きつき、地下鉄サリン事件のあとには、通勤電車に乗るたびに不安がよぎった。ポケットにはいつもマスクを忍ばせ、電車の車内でビニール袋を足元に置いた乗客がいるだけで、車内の空気がわずかに張りつめる。その沈黙が妙に生々しかった。
しかし、どこか現実感がなかった。物書きになることを諦めた私はセールスの仕事に追い立てられ、週末は寝るだけという毎日だった。企業戦士として労働に身を捧げるしかないという逃れられない事実が、憂鬱で、苦しくて仕方がなかった。いまここからどう脱するか、その焦燥に時折囚われた。
街も日常も何も変わらないように見えながら、どこかそれまでとは違う空気が漂っていた。平静を装いながらも、浮足立ったもの、張り詰めたもの、壊れたもの、目を背けたくなるものが、外の世界にも自分の内部にもあった。それを当時の私は、自分の個人的な問題だと思っていた。しかし振り返ってみると、そうではなかった。後戻りできない大きな変化の中にいたのである。
変化とは、ある日突然訪れるものではない。長い時間をかけて蓄積された歪みや違和感が、臨界点を越えた瞬間に、はじめて目に見えるかたちを取る。テロも震災も、制度の腐敗も、癒えない傷痕も、荒廃もまた、その蓄積の噴出にほかならない。1995年に相次いだ出来事は、戦後半世紀の日本社会が抱え込んできた矛盾や亀裂を、一挙に露わにしたものだった。
だが、本当の変化は、事件や災厄そのものにあったわけではない。むしろそれは、人々の日常や生のあり方そのもの、精神の深部で進行していた変容のほうにこそ宿っている。街の風景は昨日と変わらない。それでも、何かが確実に変わり始めている、そうした説明しがたい感覚が、当時の社会には漂っていた。
では、1995年とは何だったのか。戦後日本が「個の解放」として掲げてきた理念は、この頃から、その限界や歪みを露呈し始めていた。自立した自由な個人というイメージは揺らぎ、主体は外部から与えられる複数の「物語」や欲望に絶えず晒される不安定なものとなっていった。自分の人生を自分で選び取っているはずなのに、なぜか自分自身の輪郭が曖昧になっていく。人々は、消費、情報、共同体、イデオロギー、他者の欲望といった外部から流れ込む無数の価値観の中で、「自分」という感覚の足場を見失い始めていた。
豊かで安全な社会であるはずの日常もまた、別の顔を見せ始める。競争と管理は強まり、閉塞感と孤立感が広がり、暴力や不安は社会の深部に沈殿していった。人々は、その裂け目の中で、苛立ちや空虚さを抱え込みながら、出口の見えない時代を手探りで生き延びようとしていた。
1995年とは、単なる災厄の年ではない。戦後日本が拠って立ってきた「個」や「現実」、そして社会を支えていた物語の揺らぎが、目に見える形で現れ始めた年だったのである。その揺らぎは、2020年代の今もまだ底をついていない。
著者情報
文芸批評家
奥 憲介
おく けんすけ
1969年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。東日本大震災、福島第一原発事故をきっかけに本格的に文学評論に取り組み始める。会社員として勤務する傍ら執筆をつづける。「開高健論~非当事者性というフロンティアを生きる」で2018年すばるクリティーク賞佳作。戦後文学、現代社会をテーマに文芸誌等で活動をしている。著書に『「新しい時代」の文学論 夏目漱石、大江健三郎、そして3.11後へ』(NHKブックス)がある。